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FEDウオッチャーの解説 [理念]

米FRBの政策金利の動向について、今朝のモーニングサテライトのゲストとして登場するFEDウオッチャーと称される鈴木氏の解説を聞いていると、以前から思っていたことだが、改めてその観を深めた。
ERBの議事内容について、実に詳密な解説がなされて、まるで古典の訓詁注釈と同じなのである。中国の古典でも、日本の古典解釈でも、あるいは西洋の古典解釈の論文をみていても、厳密にテキストを読み比べ、文字の異同を問題にして解釈が試みられる。法律や判例の場合でも厳密に整合性を求めつつ解釈がなされる。恐らく英文学でシェークスピアの古典を読むときでもそうした作業が行われるのだろうし、ドイツ文学、仏文学或いは西洋哲学や東洋哲学インド哲学などの文献に接する場合も同じ事だろうと思う。
学生時代に学んだ外国語の解釈でもそこそこ訳語に気を配り、原意を精確に把握しようとしたものである。総じて言えば、文献の読解力の涵養が求められているといえるだろう。
大阪大学の文学部長が文学の役割というか文学系の学問はどのような時に役に立つのかということの挨拶が話題になっていた。人生の岐路に立つときに役に立つというような見識を述べられていた。
上の文脈で言えば、恐らくその旨はキチンと文献を読み解く力を養う訓練をしていることに尽きると言うことだと解釈できる。精確に文献を把握する努力をしていると言うことは、現実の問題に直面したときにその訓練の成果が自ずから発揮されると言うことが言いたかったのではないかと勝手に解釈している。
役に立つとか役に立たないとかという視点で言えば、直ぐ役立つことは直ぐに役に立たなくなるとも言える。経済を専門にしている人で文学などは糟糠のようなものだと蔑んでのたまった御仁もいたが、無用の用という視点を包括することこそが有用の総体なのではなかろうか。
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天皇譲位後の問題 [理念]

譲位の儀式が検討されているとの報道がある。譲位というのは、一種の隠棲の意思の表明でもあるから、大々的に儀式をするよりは、天皇が譲位に至ったお気持ちを国民に向かって述べられるだけで十分なようにも思う。
また、皇室典範の規定か何かで譲位後の復位を認めないという規定を条文化するとかいうのも象徴天皇を実権を持つ機関の位置づけをするように思えてならない。
復位を問題にするというのは、裏返せば、天皇の強制的退位もあり得ることを含意していると思えるからである。主権在民下での象徴天皇の意味を無視、ないしは政治的に利用しようとする天皇の権威権勢の影をそこに潜ませているように思われるのである。
言葉によって表現される規定や条文とはそういうように解釈されて、利用されかねないものである。復位云々の規定や条文は盛り込まないことである。それが譲位の意向を示された今上天皇への敬意であり、尊崇であろう。

天皇の譲位と易の考え方 [理念]

天皇が譲位のお気持ちを示された最大の要因は高齢による十全な象徴天皇の役割が果たせなく成りつつあるということであった。この問題について、健康面を含む天皇の徳が十分発揮できない、別言すれば、徳の内実に欠ける部分が生ずる懼れが出て来たための譲位というのが、天皇の譲位の内部心意であって、それを尊重することの意味については既に記している。
このブログのタイトルは、易の最初の乾の卦の爻辞(こうじ)に拠っている。乾卦の上の卦の真ん中の爻の辞は、「九五 飛龍(ひりゅう)天に在り、大人を見るに利あり」とあり、一番上の六番目の爻の辞は「上九 亢龍(こうりゅう)なり、悔い有り」とある。易の考え方は、中正を尊ぶので、九五の位置は、あたかも天に昇らんとする龍が勢いよく中天にいるような最も恵まれている状態にいることを象徴しているとされる。上九の亢龍は、天高く昇りすぎてしまって後は降りるしかない状態にあることを象徴していて、ここまで上り詰めない方が良かったと悔いているということである。天皇の譲位は、この乾卦の九五と上五との爻辞と相呼応しているように思えるのである。
易について言及したついでに申せば、神社のおみくじなどの占いの「大吉」とか「吉」とか「凶」とかの占った結果を示す言葉(判断辞)はこの易の判断辞を借用しているのである。神道思想もその意味では易の思想などを巧みに取り入れている融合的な思想である。純粋に日本的なるものというのは言ってみれば無いとも言える。こうした異国の文化や思想を巧みに取り入れ独自の文化を作り上げてきた所に日本的なるものの本質というか原点があるのだろう。従って、国粋主義と言うような思想は幻想に過ぎないとも言えるだろう。幻想に縋っているのだから、呪術に堕するのも已む得ないのかも知れない。

象徴天皇或解 [理念]

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国国民の総意に基づく」という概念と表現は、イギリスウエストミンスター条例前文の「王位は、イギリス連盟の構成員の自由な結合の象徴」を典拠にしているようである。
典拠の問題は暫く措くとして、この天皇の身分や位置づけは、理念的には、大日本帝国憲法の天皇の位置づけよりもより天皇を包括的存在として位置づけしていると考えることも出来る。

帝国憲法の第三章は、「天皇は神聖にして侵すべからず」とあって、一方では、このことを前提にしつつ立法司法行政の三権を掌握させている。治政の場での絶対的権力の把持者である。その意味では、神聖にして侵すべからずと無限大の属性を付与しつつ、天皇を機関の最高権力者としての地位を与えるという限定をともなわせていることを意味する。天皇の存在は二重構造になっていて、神聖視されるべき上部構造と治世の現場での下部構造とに分けられて「天皇」概念が構成されている。
そもそも神聖とは何か。八百万の神には、悪さをする神もいて、我々が崇め、恐れる神々は一律に神として括られる絶対的な存在ではない。キリスト教のようにこの世界を作った絶対的な唯一の神など我が国には存しない。だからこの神聖にして侵すべからずという憲法の規定は呪術的であると言える一面を備えていることになる。注釈的にいえば、王権神授説の日本版にすぎない。和魂洋才というが、この一章の本源は、洋魂和術であって、大日本帝国憲法の精神の稚拙性を示しているともいえる。呪術的と言う所以でもある。
祭政一致の役割を担っていて、呪術的要素が御真影を踏むと罰が当たるとかという踏み絵の機能が備えられたのであろう。この第三章は、実体を描ききれないので機能としての「神聖」という言霊に縋っているだけに過ぎないとも言える。

治世の場では、その権能は必ずしも絶対的に憲法で保証されてもいなければ、神聖視もされていなかった。第十三条は「天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」と規定する。
終戦の詔勅については、この十三条の「和を講す」を拡大解釈してなされたなかで、陛下自ら宸襟を述べておられる。これに対して真珠湾攻撃に当たって、宸書の公開は言うに及ばず、宸声で宣戦布告をされていない。重大な憲法違反の許で為されたのがこの真珠湾攻撃だと言える。下に記すように陛下を蔑ろにする順賊によって行われた戦争なのである。
米国の軍人から卑怯な戦闘行為と批判非難されるのも当然なことである。自国の国民に対しても戦争宣言をせずに為された戦闘行為は相手国からみれば、卑劣な戦争行為と受け取られても当然である。
天皇の神聖さは、治政の場では憲法違反という法規違反で侵されていることになる。法規違反を侵すのも神聖さの範囲内だという理解があるとすれば、それは正に呪術的為政であって、近代国家の体を成していないことになるだろう。
「教育勅語や天皇陛下を大事にするという方向性は同じ」(日本会議大阪)というが、象徴天皇は大事にするとかという理念ではない。統合の象徴としての天皇を尊重しないのは、憲法違反なのである。天皇制に疑義をもつ勢力が護憲を訴えるのも改憲論者と同じ思惟構造であろう。仮にも、帝国憲法の規定するような天皇の概念をイメージしているとすれば、天皇陛下を大事にするという発想及び表現が不遜そのものである、と言っても過言ではない。統合の象徴としての天皇の存在それ自体が大事なのである。
「陛下を蔑ろにする逆賊は誰か」(小林よしのり『天皇論』の広告文:日経新聞)なる広告を目にした。陛下を蔑ろにする逆賊が誰なのかは該書を読んでいないので、何とも言えないが、逆賊がいれば、順賊もいようから、帝国憲法に掲げる天皇観を抱いている天皇論者がいれば、彼らこそが陛下を玩ぶ順賊なのだろうと言える。
何故象徴天皇制が、帝国憲法の天皇の規定よりも重い意味を持っているかを考えてみよう。
象徴とは具体的なものつまり具象をもたないことである。つまり帝国憲法のように実際の政治に関わらないが国民を統合しているという所に象徴の意味の重大さと天皇の地位の超越性が存しているのである。
大日本帝国憲法で規定する天皇が機関としての側面をもっていたのとは異なって、象徴天皇は機関ではないことは明白である。強いて言えば、地位とも言い難いほどの地位、地位を越えた「地位」なのである。機関でもなく限りなく地位でもない統合の象徴が天皇なのである。大事にするとかを越えて、統合するための象徴でもあるのが天皇なのである。皇后も象徴としての天皇に配し奉る存在なのである。
安倍首相夫人が首相に随伴して国費で政府専用機で渡航する法的根拠が不明確なのとは異なる。法的根拠を持たない恣意的な慣行でしかないだろう。近時安倍首相夫人が、数名の公務員を引き連れて森友学園に出向いたことが問題になっているのとは次元の異なっているのが、象徴としての天皇皇后なのである。
たとえが適切でないかも知れないが、国民統合の象徴としての天皇と首相との相異を数値化して表現すれば、天皇皇后の行幸や外国訪問と首相の外遊や国内遊説にはいずれも然るべき警護(SP)がつく。天皇皇后の場合は、100人の警護が許されるとすると、首相は国民の40%にも満たない自民党票の総裁に過ぎないから、その4割40人の警護が許されるということであろう。実際の警護状態はどうなっているのかはしらないが。
大日本帝国憲法で神聖視された天皇概念は概念の所産に過ぎない。現憲法の象徴天皇は、統合の帰結点であると同時に出発点つまり始原でもあるのではなかろうか。日本国民一人一人が国民としての集合体を形成するための拠り所であるだけでなく、同時に拠って立つための拠点なのが象徴天皇のなのではなかろうか。中国の古典の言葉を借りれば、「一統を大にする(凡ての国民を一つに纏めることが偉大=尊いことなのである)」ということであろうか。
些か思弁的になった嫌いがあるが、一つの天皇理解という意味で「或解(わくかい)」と標題をつけてみた。もう少し思索を深めることが出来たら、改めて論じてみたいと思う。


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慰安婦像問題 [理念]

韓国の大統領弾劾に絡んで日本大使館の前に慰安婦像が設置されて、駐韓大使の召還という日韓関係に重大な齟齬軋轢を生じていて、韓国の次期大統領選挙でも重要な争点になりそうだという。
韓国兵がベトナム戦争に参戦してベトナムの女性に対する暴行などで生まれた子供は5000人を優に超えているとも言われる。このことが日本の韓国批判の立場の人から指摘されると、日本人の慰安婦問題をそらすための捏造だと強固な反日韓国人は反論するとか、という記事を読んだ。
日本が韓国女性のみならず慰安婦を強制し、韓国兵がベトナム女性を強姦したり慰安婦として虐げたことの歴史的事実の検証を越えて考えるべきことがあるはずだろう。
慰安婦像が作られている思想が反日嫌日感情に基づくものだけであるなら、その劣情はまだ底がしれているのかもしれない。国連事務総長まで務め、広い識見をもつと考えたい次期大統領選挙候補の潘基文氏まで慰安婦像問題について毅然とした姿勢を示していない。
慰安婦像設置の意味する所は、戦争時だけでなく、時と所を問わず女性に対する性的暴行、虐待への批判、非難、弾劾としての象徴的意味が込められているとする見方に立てば、大使館が治外法権の場所であるか否かを問うことでもなく、国境を越えたより根源的な男女不平等、引いては強い者が弱い者を虐げ凌ぐ驕りに対する普遍的な戒めの象徴として見ることだって出来るのではなかろうか。
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井沢元彦氏の朝鮮(韓国)の朱子学受容理解 [理念]

「なぜ自然科学の分野ではいまだに韓国人は誰一人としてノーベル賞を獲れないのか?

 韓国人にとっては耳の痛い問題だろう。あるいは私がこの問題を取り上げること自体、韓国に対する悪意のあらわれと受け取る韓国人もいるかもしれない。とんでもない誤解である。私は韓国に早く普通の国家になって欲しいと思っている。具体的に言えば、何百年も韓国を蝕んでいる朱子学の悪影響から早く脱して欲しいという意味である。(中略)
しかし、そうではない。実際は輩出、独占どころか2016年の時点で韓国人の受賞者は一人もいない。ということは大前提とした「すべては韓国発祥である=韓国人のオリジナリティー創作能力は人類最高」という仮説が間違っていたということだ。

 むしろ一人もいないのだから仮説とは真逆の「韓国発祥のものはほとんど無い=韓国人のオリジナリティー創作能力は人類最低」というのが真実であるか、少なくとも真実に近い、ということなのである。

 ここで、そんなことは絶対に認めないと叫んで、冷静な議論が耳に入らなくなるようでは、韓国人は永遠に朱子学の悪影響を脱することはできない。そう叫ぶこと自体、じつは朱子学の毒に冒されているのである。」井沢元彦氏による週刊ポストの連載「逆説の日本史」(週刊ポスト2017年1月13・20日号)

韓国で自然分野でのノーベル賞受賞者が未だに現れていないことの理由が、朱子学に毒されているという理解が正しいのかどうかの判断根拠は持ち合わせていない。
井沢氏は「大切なのは論理であって感情ではないのだ」と文中で注意を喚起しているが、この注意に従えば、井沢氏は、朱子学が論理体系をもった思想体系つまり理性を重視する学問であることを誤解、乃至は曲解しているのではないかと思う。ノーベル賞、殊に自然科学分野での受賞者の有無と民族的思惟形成の関係が井沢氏の指摘する通り正しいのだとするなら、正しくは朱子学を朝鮮人の固有の思想を介して理解した朝鮮朱子学だというべきであろう。
朱子の「論語集注」は、孔子を神格化し絶対化しているとはいえ、論理的整合性をもって解釈されている。その論理的整合性の故に西洋人は朱子学にさほど強い関心を示さない。むしろ道教とかの非条理な思想に関心を強く示すとも言われている。
しかし、朱子は、大疑録(本当の疑いについて)で「疑い有るは疑い無きを要し、疑い無きは疑い有るを要す」と疑うことの本質と原理を見事に表現している。
孔子も「多く聞きて疑わしきを闕(か)き、多く見て殆(あや)うきを闕く」と言っている。
「疑わしきを闕く」というのは、疑わしいことは疑わしいこととしてそのままにしておく、ということである。疑わしいことを狭い独断で決めつけたりせずに、判然とした明確なことだけに依拠して発言したり実践したりすれば、悔いることも咎めを受けることも少ないと言っている。

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無為自然を貫いたディラン氏 [理念]

ディラン氏の作品と言えば、風に吹かれての曲しか知らないし、その曲の歌詞も理解していない。その他の曲を聴けば、彼の曲だったかという程度であって、ディラン氏の存在が今回の話題になるほどの人であることも知らなかった。
今年のノーベル文学賞受賞対象者として選ばれたボブ・ディラン氏がスウェーデンアカデミーとの連絡も取れず、スウェーデン・アカデミーも連絡を取ることを断念した、と報ぜられている。
果ては、沈黙を守る同氏に対して傲慢で無礼だという委員もいると報ぜられている。この傲慢無礼発言に対しては、そういう委員の方が傲慢無礼であると批判している人もいる。筆者も同じ考えを持つが、その人は社会的訓練を一応は積んでいるディラン氏なのだから、ウンとかスンとか言っても良いように思うと個人的な感想を述べつつ。
察するに、ディラン氏はSNSに受賞の事実を記したことが、大人の対応であったつまり孤絶した存在ではないとの意思表示ではなかったかと思う。だから、昨日かに受賞のことを削除したのであろう。
受賞を拒否すると宣言するのも一つの価値観の提示であろうが、光栄なこととして受賞している数多くの人がいることも事実であるから、それを否定しかねないこともあり得るだろう。
ノーベル書授与自体は一つの価値や権威の創出である。分野によっては、世界的に認められた最高の価値基準であるという評価にもなっている。その授与を受けるか拒否するかも一つの価値観の提示である。つまり同調か反対価値の提起かのいずれかであろう。二項対立的に言えばそうなる。

受賞した事実だけは事実としてSNSで同調して報告した。その報告も一定の時間的経緯の中で削除することで事実を受け入れたことを証明したのではないか。今回ディラン氏は受賞拒否も表明していない。彼にすれば、自分には関係のないことであると考えたのではなかろうか。自らにとって関係のないことについて敢えて関係がないという必然性もないということではなかろうか。所謂言外の言による意思表示である。無為自然だという所以である。人為的な計らいを極力廃することで最低限事実は事実として受け入れているという今回の問題に対応しているということではなかろうか。価値の相対化、権威の相対化を自ずから示しているように思われる。



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死刑廃止思想と犯人の射殺 [理念]

アムネスティは、世界の死刑廃止論を主導し、死刑制度を存続させている多くの國を批判している。個人の殺人行為は厳しく処断されるのに、国家権力が殺人をすることの不当性を縷々説いている。殺人犯にも基本的人権を固有するという理念が語られている。フランスでも死刑廃止が制度化している。米国では州によっては死刑制度を廃止している所もある。
ところが、最近頻発するテロの実行犯については、自爆テロの場合はさておいて、有無を言わせず射殺される。日本では、凶悪犯に対しても警官がピストルを発砲しても、その正当性が色々問題にされる。余程のことがない限り犯人を射殺することはない。浅間山荘事件の時や、寸又峡事件の遠きに及ばなくとも、近時の人質を取った立てこもりに対しても、説得をしつつ、犯人を射殺することは先ずない、と言ってよい。被害者の人命を最優先しつつ、犯人確保を計られている。
欧羅巴や米国などで凶悪犯を即刻射殺するのは、裁判にかけて、動機などの解明をすることもなく、即刻死刑を執行しているのと同じであろう。基本的人権の圧倒的抹殺である。
アムネスティ活動の文言を精緻に読んで理解している訳ではないので、誤解があるかも知れないが、犯人射殺に対する見解は見て取れない。
銃が比較的容易に手に入る社会とそうでない社会とでは事情は異なる点もあろうが、人権思想、法の裁きを受ける権利、犯行の経緯などの解明を含めて、凶悪犯の即時射殺の思想と死刑廃止論との隔たりをどう埋めたらいいのか。西洋の人権思想の根源的意味とアジア的、殊に日本的処刑観のどちらが人権を重視しているか懐疑的になる。
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