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採用学という学問領域 [教育]

先日ラジオを聞いていたら、就活の時期に絡み、かつ「売り手市場」のこともあるのだろうか、若い研究者が企業サイドからの人事採用の問題を専門に研究していて、その成果の一端を話していた。
面接で好ましい評価を得た学生が就職後、企業や会社で得る評価とは必ずしも一致しない。正確な記憶ではないが、十人に七八人の評価が異なるというような話であった。そのミスマッチをどのように最小限にするかが今後の企業の人事採用に当たっての課題であり、体系的に人事採用の問題に取り組むことが重要だというような趣旨のことを言っていた。
思うに、この先生は、プロ野球のドラフトの順位と入団後の活躍の如何の問題については、関心がないのであろうか、と思った。
ドラフト一位で騒がれて入団した選手が武運拙く成功していない事例の方が多い。ドラフトの下位指名で大成した選手も多い。イチロー選手などはその筆頭であろう。
限られた野球界の球児や大学社会人の選手を専門のスカウトがマークして高い順位で指名していても、入団後に成長大成する選手は限られていて、指名順位との相関関係は極めて低い。となれば、企業の人事採用が思惑通りの結果を伴わないのは当然であろう。
企業によっては、卒業高校で篩をかけたり、大学の偏差値で評価をしたりしているところが多いという。表だっては公言していないが、公然の秘密であるようだ。それでもとんでもない人材を採用することもあるようだから、「金の保証はするが、人の保証はしない」という知人の実業家の見識の高さを改めて想起している。
暴言暴行で名を馳せて今や雲隠れしている某女性代議士は東大出身だとか。企業の浮沈が人材に求められるとすれば、国家の浮沈はそれにもまして為政者の質に依存していることになるだろう。悪貨が良貨を駆逐するとは、よく言った者で、国民は見分けの付かない悪貨を掴まされているのかもしれない。
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民間議員の弁明 [教育]

政府の「国家戦略特区諮問会議」(議長・安倍首相)の民間議員を務める八田達夫・アジア成長研究所長らが13日夜、内閣府で記者会見し、学校法人「加計学園」の愛媛県今治市への獣医学部新設について、「政策判断、規制改革のプロセスには一点の曇りもない」と述べ、選定が「加計ありき」との主張に反論した。(中略)会見で八田氏らは、獣医学部の新設について〈1〉2014年から継続的に議論してきており、『加計ありき』で検討されたとの指摘は事実に反する〈2〉規制が合理的だとの根拠を示す責任は新設を認めない文部科学省側にあるのに、同省は十分な根拠を示せなかった――と語った。(YOMIURI ONLINE)

何故今になって会議のメンバーが雁首を揃えて経緯を説明する事になったのか。どうしても経過を説明したければ、安倍議長に報告して、議長から経緯を説明するのが手順としては正規であろう。それとも任命権者の安倍首相から、経過を説明して欲しいと依頼されたのであろうか。
キチンと討議を重ねて得た結論であれば、反論する必要も無いのでは無いかと思う。経緯を説明したければ、加計学園問題が問題にされる前に、経緯をキチンと議長が説明し置くべきであったろう。
この記事にはないが、議員の一人である竹中平蔵氏は、国家戦略特区の重要性にまで言及していた。なぜこの加計問題を説明するに当たって、この問題に触れたのか分からぬが、考えてみれば、正に語るに落ちる話であって、国家戦略特区に申請されているからこの戦略特区構想を実現するために優先したのだと言いたかったのかもしれない。
同氏は、また獣医師会からの強い要請もあったとか言っていたが、加計学園の獣医学部新設に特定した要請ではないだろう。もしそうであれば、獣医師会は、教員のみならず学生の確保に責任をもつということと同義であろうから、そのために奔走して然るべきであろう。教員の確保すらままならないと報ぜられているのも摩訶不思議である。学生の確保も覚束ないとか。将来の進路も不透明とか。
法務研究科を乱造して、有力大学ですら、相次いで募集停止を発表して、撤退している大学が多く出て来ているような事態が来るのであろう。税金の無駄遣いである。
学生が集まらない場合、民間議員として決定責任を取るのであろうか。

「東大の病」が日本の組織崩壊の元凶だ [教育]

「東大の病」が日本の組織崩壊の元凶だそこからの離脱を決意して離婚し、それに猛反対した親との縁を切りました。その過程でやがて、自身の性自認に疑問を抱き、自分を癒すために女性装するようになったのです。(中略)図書行政商議会の場で1人で対抗しても事態をひっくり返せないと悟った私は、とりあえず、一番の被害者である学生たちに、この事態を伝えるべきだと考えて、ある学生にメールしました。それから、知り合いの東京新聞の記者にも公開可能な情報を伝えました。このことで、私は図書館館長から「リークをした」と責められることになりました。確かに、私が大学側からの正式発表を待たなかったのは事実ですが、図書行政商議会で決まったことは、最終決定なのですから、一刻も早く関係者に知らせるべきことなのです。しかも閉館まで4ヵ月くらいしか時間がありませんでした。(中略)この病への唯一の処方箋は、「うやむやにされたことをきちんと明るみに出し、是非を問う声を上げる」ことです。誰かが歯車に身投げして、止めないといけないのです。今回、がんばってくれた学生たちは、声を上げることで「東大の病」を正すことに成功しました。彼らにとって、非常に大きな体験だったのではないかと思います。少なくとも私にとっては東大のみならず、日本の将来に希望を抱くことのできた貴重な機会でした。 安冨 歩(DIAMOND ONLINE)
これを読んでいて、安冨氏は、離婚したり、親と絶縁した時のエネルギーは相当なものであったろうに、「図書行政商議会の場で1人で対抗しても事態をひっくり返せないと悟っ」てしまったのかということであった。東大の組織運営がどうなっているのかについては全く不案内だが、図書行政商議会で議論したことは所属教授会に報告されるような手順になっていないのかどうか。教授会で問題点を報告することで、この図書館の一年間の閉鎖が研究者のみならず学生不在の運営であることの問題提起をすることができたのではないか。
学生に事態の深刻さを教えるのはそれからにしても遅くはないだろう。学園闘争が盛んだった時代には、一人で断食をして問題を訴えた教員もいたことを思えば、反対の意思表示や問題提起の仕方にはどこか優雅な所がある。図書館長からリークしたと非難されるのは当然である。
教員と学生が深刻に対立する事態に立ち至った場合、教員の側で最大限の努力をして賛同者を得ようとしないで安易に学生の力を借りて事態の展開収束を図ろうとすると、学生の信頼をも損なうことがあるというのが組織に属する構成員が心しておくべき事のように思うのである。
東大の病ではなく、我々自身を蝕んでいる病なのであって、それが東大という最高の知性集団の中で顕在化しているだけなのであろう。

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教育勅語 [教育]

「教育勅語を毎日暗唱させてたっていうのはすごく素晴らしいことだとは思うよ。教育勅語っていうのは、軍国主義的だっていろいろ言われることもあるけど、その内容は本当に子供たちに教えていくべきものだからね。親孝行をしよう、兄弟仲良くしよう、友達を信じよう、勉学に励もう、社会のために働こう…っていうことを説いているものなんだよ。これこそ、日本国民が後世に受け継いでいくべき、素晴らしい教えだと思う。でも、だからこそそれが差別主義的な考えと混同されてしまうのは、本当に迷惑。教育勅語で言っていることは、差別なんてものとはまったく逆のものなんだから。」(高須クリニックの高須克弥院長)
勅語は明治二十三年に公布されている。大日本帝国憲法の発布施行は、明治二十二年である。
そもそも勅語というのは、天皇の勅命に基づいた天皇の言葉ということである。神聖視された明治天皇の言葉が教育勅語である。
「爾臣民父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし、学を修め業を習い、以て智能を啓発し、徳器を成就し」の部分だけを取り出せば、高須氏の言うとおりである。中国の古典ではよく使われる「章を断じて義を取る(義を取りて章を断ず、ともいう)」という引用の仕方を高須氏も無意識にしているのである(中国の古典の知識の有無は分からないが)。前後の意味や章句全体の意味とは関わりなく、言ってみればいいとこ(都合のいいところだけを)取りをして、教育勅語全体を有意義な思想としてしまう短絡的な必ずしも知性的な対応ではなかろう。
「父母に孝に」というのは、論語を言うに及ばず儒教の古典で説いていない書はない。「兄弟(けいてい)に友に」は論語が引く「書」の言葉である。中国の古典に精通した当時の漢学者が、論語や孟子、礼記などの中国の古典思想を根幹にして勅語は纏められている。儒教思想と天皇の神聖視との思想が合体している。天皇の絶対化は、父母に孝という思想とは究極的には相容れない。
皇后陛下が皇太子妃殿下時代に実家の父母が対面したとき、妃殿下のご両親が妃殿下に頭を下げられたことについて、中国の礼制に精通する中国研究者は、中国では子が親に頭を下げることはない、と言っておられた。孝は、それほど絶対的な価値観なのである。従って親に対する孝と君に対する忠誠心とは相容れない血縁倫理が儒教の根幹にあるということをどれだけ教育勅語、明治天皇は理解していたか。親を捨てでも君に忠義を尽くせという公的価値優先が前提にあるのが教育勅語の思想である。天皇を絶対化し神聖視するという一種の信仰心と繋がっているともいえる。キリストも親を捨てて我に従わないものは信徒として認めないようなものであろう。新興宗教が肉親を捨てさせて帰依させるのも宗教の本質に基づいているのである。
そうした理屈は抜きにして、親の介護のために職を離れて孝養を尽くしている人は数多くいる。教育勅語を読んでいてそうしたことをしているわけではないだろう。一方、同居していないが親を扶養家族にして税金を軽減したり、扶養手当を得ている人も少なくない。
総じて身近に接する若い人は親を思う気持ちが強いように思う。今こそ教育勅語、教育勅語を暗唱するのが素晴らしい、というのは保守的というより、社会の実相を見ていないか、為にする胡散臭さを覚えてしまう。
高須氏も、断章取義ではなく、「人 能く道を弘む、道 人を弘むに非ず」という孔子の言葉を玩味した方がいいように思う。


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森友学園の教育 [教育]

森友学園が運営する塚本幼稚園(大阪市淀川区)で、園児に「安倍首相がんばれ」などと言わせる教育をしていたとされる問題で、大阪府は28日、幼稚園で政治的中立性を逸脱する教育があったかどうか、調査を始めたことを明らかにした。(中略)特定の政党を支持・反対するための政治教育を禁じる教育基本法に抵触すると確認された場合、是正を指導する。松井一郎知事も28日、記者団に「政治とつながっていると誤解を受けない教育をするよう指導する」と話した。【津久井達】(毎日新聞)

映像を見る限り、北朝鮮で行われている教育や国民の金正恩礼賛の姿に酷似している。「政治とつながっていると誤解を受けない教育をするよう指導する」と松井一郎知事も大らかな対応を示しているのも摩訶不思議である。
自民党の文教部会で、生徒を戦場に送らないという教育が教育の中立を犯していると告発まがいのことも奨めるような報告をしているが、このような教育が幼稚園で行われていることに対して批判もしなければ、擁護もしないのもこれまた不可思議千万である。
愛国的立場を強調する人々がヘイトスピーチをして、桜井誠氏のように自らが政権を執ったら韓国と断交すると公言し、いな暴言をして、北朝鮮へのヘイトスピーチに対しては多くの同意を得られるはずだというような趣旨のことを平然と言い放っている。
果たしてそうした思想的感情的な有りようが日本的な美徳だと彼らは考えているのであろうか。むしろ守るべき日本的な美徳や美風はそうしたものを許容しない、少なくとも距離を置くところにあるように思う。
そもそもヘイトスピーチなる用語の使用は、どこに端を発しているのかは不案内だが、漢語で言えば、罵詈雑言、誹謗中傷ということであり、日本語で言えば、「のししりわめきちらし、あることないことを言いつのりなじり倒す」ということであろう。それをヘイトスピーチといって、その悪質さを薄めているのである。彼らが自らの言動をこの異国語で表現しているのも奇妙に思うが、そこに自らの優越性を顕示しているのだとすると、何だか近親憎悪のように思えてならない。
こうした言動からどうみても、礼節を重んじる態度を見て取ることができない。日本的な美徳と相容れない処で日本人の品位や美徳を貶めているとしか思えない。これが真に愛国的な心性や感情の表現なのであろうか。
古代以来、西方ではバルバロイとかいい、東方では、夷狄とかと言って、異国民を蔑む言動は大方の民族の異国民や異国文化への反応としてあるが、こうした呪術的とも言える精神や意識は、大日本帝国憲法というカビの生えた袋を裏返して虫干しして引っ張り出してきたものなのであろうか。

生活保護と大学進学 [教育]

国会でも生活保護受給者の子弟の大学進学について、審議議論され、生活保護受給者の子弟が大学進学するためには、今の所帯から抜けなければならない。その結果所帯の生活保護支給額は減額される、という。
少し論点はずれる点なしとしないが、昔、失業対策の一つとして所謂日雇い労働という制度があった。この制度に与るためには、一所帯一人と決められていて、夫婦が形式的に離婚してそれぞれが日雇い労働に従事して生活の糧を得ていたことということを想起する。
また、今日のように高校進学率が97%に達している時代とは異なって、高校進学率が50%を越える程度の時代にあっては、子弟の高校進学は生活保護受給要件に合致しなかった。つまり子弟を高校に進学させる家庭は、生活保護受給者として認められなかった。ただ、定時制高校進学の場合には生活保護受給が可能だったという記憶がある。
現在の大学・短大の進学率は多くてみても55%内外だとされる。上記の事例に照らせば、生活保護受給者の子弟の大学進学が許容されないのは、時代と社会の諸条件の向上があるとはいえ、当然な制度的措置かも知れない。
かつ、大学進学という点に絞れば、夜間大学もあれば、昼夜開講の大学、更には通信制大学もある。
夜間大学などの進学の場合も、生活保護受給資格に抵触するのかどうかを定かにしないが、もし夜間大学進学も生活保護支給要件の対象外だとすれば、夜間大学などの進学に関しては生活保護支給の対象にするように改めるべきだと思う。
国公立の夜間大学設置は、広い意味で言えば、社会保障制度の一環として捉えることも出来る。その視点に立てば、生活保護受給と大学進学を昼間の大学と限定しているような議論は些か問題であろう。
大学が変質して、大学自体が今や学問の府とはかけ離れている実態があったとしても、原理的には学ぶという営為は、所与の条件の中で最大限発揮しようと思えばできることである。換言すれ、一定の条件がなければ学べないというものでもない。高度な学問的営為が満たされる条件をどこに設定するかということと意欲の関係が問われているのだとすれば、生活保護受給所帯の子弟が一定の制約を負うのは、一般論としては決して不平等な制度的欠陥だとは言えないように考え、そのことが冷酷な対応だとは言えないように思う所大である。
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早稲田の弁明 [教育]

天下り規制への理解が足りなかった--。文部科学省が元局長の天下りを組織的にあっせんした問題で、早稲田大学は20日、教授に再就職した吉田大輔・元高等教育局長の辞職を明らかにした。記者会見で陳謝した鎌田薫・早大総長は、再就職等監視委員会の調査を巡り大学の人事担当者が文科省と口裏合わせをしたと認めた。文科省との「癒着」は否定したが、官僚の再就職への不信が広がっている。(中略)吉田氏の採用を巡り、早大は15年9月、内部で審議を行った。この時、大学を監督する立場にある文科省の高等教育局のトップを受け入れることを疑問視する意見が出ていた。だが文科省人事課から「再就職の規制には抵触しない」「採用手続きが文科省退職後に開始されたのであれば問題ない」と説明され、受け入れを決めたという。(毎日新聞)

「内部で審議を行った」とあるが、恐らく採用に当たって組織された人事委員会に当たるものだろうと推察する。この人事委員会で候補者として決める時点で疑義が出て、問い合わせたら規定に抵触しないとの回答を文科省から得た。そこで該当教授会で業績等の履歴が審議されて決定され、上部機関に諮られて、最終的に理事長が決裁して正式採用ということになっているはずである。早稲田は二重三重のチェックをして吉田氏を任用していることになる。大学の教育に必要な人材として評価したということである。
天下り規定に抵触するかどうかが問われたというのは、吉田氏の研究者教育者としての適格性よりも規定違反を敢えてしていた品行、品性に関わる問題が発覚して、辞職願が教授会に提出され、それを教授会が承認したということになるのであろうか。余人を以て替え難い人材として迎えたのであれば、簡単に辞職を認めなくても良いように思う。むしろ天下り規定に問題在りという位の見識が欲しいと思うのだが。
早稲田は、昔から学生一流、教授三流とか揶揄されていたと仄聞するが、組織は何流なのだろうか。


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国民の分断 [教育]

2011年の東京電力福島第一原発事故後に福島県から横浜市に避難した男子生徒(13)が、転校先の市立小学校でいじめを受けていた問題で、いじめ防止対策推進法で「重大事態」にあたる金銭被害の疑いなどを学校が把握したにもかかわらず、学校と市教育委員会が、事態を認定するための「協議」をしていなかったことが、市教委などへの取材でわかった。
 文部科学省は同法の趣旨に反する経緯を問題視しており、市教委は内部調査を始める。
 市教委などによると、生徒が不登校になったのは小学5年生だった14年5月。生徒は「(東電から)賠償金をもらっているだろう」などと言われ、ゲームセンター代などを負担し続けていた。学校は6月、親からの相談で支払いが100万円を超える可能性を認識したが、校内会議では「いじめではなく非行かもしれない」といった議論に終始し、重大事態の認定については協議しなかったという。(YOMIURI ONLINE)
水俣病の被害者に対しても、多額の補償金を得た被害者に対しても、同じような誹謗中傷がなされた。
小学生がいじめをする考え方の背後には、周囲の父兄などの普段の会話や中傷に基づいていることがしばしばある。
教師が、いじめとして認識できなかったのは、いじめをした児童と同じような意識が潜在していたからかもしれない。
このように国民の間に悲惨にして不幸な事態が生ずるとそれにともなって、考えてみれば、同じような境遇にいつ何時陥るからと言う不安感が裏返しになって、目の前の不幸な境遇に居る人たちを一層奈落の底に突き落とすような誹謗中傷をするのが世の常であるようだが、それを密かにほくそ笑んでいる居る人達がいることを忘れてはならないだろう。為政者の分断支配に乗せられて、ますます市井の人々は不幸を増幅しているのではないであろうか。天に唾するものはいずれは己に帰ってくるということであろうか。

貧すれば鈍する(貪する) [教育]

文部科学省の「私立大学等の振興に関する検討会議」。水戸英則・二松学舎理事長が国立大と私立大の公費支出格差に言及すると、即座に浜口道成・前名古屋大学学長(科学技術振興機構理事長)が切り返した。「少子化は20年前から進んでいたのに、大学は逆行して800校に増えた。これを無視した議論は納得できない」7月の会議でも浜口氏は、国私間格差の是正を訴えた小出秀文・日本私立大学協会常勤常務理事に給与水準などの情報公開を求め、「私立を十把一からげで議論するのはおかしい」ともう反論、場を凍り付かせた。
激しいさや当ての背景には、18歳人口減少による地方中小私大の経営悪化と、厳しい財政下での大学予算削減がある。(中略)学生数(大学院などを含む)で私立は74%を占めて国立(21%)を圧倒するが、國の公費支出は国立が1兆945億円(運営交付金)で、私立は3153億円(私学助成)。学生1人当たりでは国立179万円に対し私立は15万円だ。(日本経済新聞「岐路に立つ国立大学 下 2016.10.25)

国家財政が窮迫する中で、国立大学は独立法人化して、予算も削減され、出来るだけ自力で金を作れというのが基本的な文部行政の姿勢になっている。名古屋大学などの「基幹大学」でも予算の制約が研究活動に大きな影を落としていることは、先のノーベル賞受賞の時にも、研究者から基礎研究に対する予算減少が問題にされていた。基幹大学では企業との連携や委託などで研究費を何とか捻出している所もあるが、それはまだ恵まれている方である。基幹大学のみならず地方の国立大学でも交付金の制約から教員の欠員補充にも支障を来している部門もあると聞く。
浜口氏が指摘するように、少子化が視野に入っている中で、大学が増えている。高等教育機関の増加は必ずしも負の遺産ではないと思うが、定員割れの大学も多い。
大学設立の際には、認可を得るために、学生の確保や卒業後の進路等の青写真を提出しなければならない。通行量を多く見積もって道路敷設を正当化するように、学生確保や進路の見通しを示して、最終的には、大学設置審議会かで審査されて設置が認められる。
確か田中真紀子氏が文部科学大臣だったかの時に、某大学の新学部設置に拘わって、ストップをかけて話題になったことがあった。設置審議委員会で認められた設置を行政の長が横やりを入れたことについて、当該の大学からも指弾されていたように記憶する。
ここで指摘したようなことは喧喧諤諤と議論されたことだと推測できるが、大学設置の許認可権は最終的には文科相にあるのは事実であるが、そのことは暫く置いても、浜口氏の論調は吾が田に水引く見解のように聞こえる。日本の学術や学問全体の進展を考えているのだろうか、と疑念を抱きたくなる。原義とは少し離れるが、寡きを患えず均からざるを患うということで学術の進展を考えるのが学問の府に籍を置く者の執るべき態度のように思うのだが。


慶応大学の弁明 [教育]

 慶大は12日、公式ホームページに「“広告学研究会”の解散命令に関わる一部報道について」と題した文章を掲載。「捜査権限を有しない大学の調査には一定の限界があります」「大学としては自ら事件性を確認できない事案を公表することはできず」「“隠蔽(いんぺい)”の意図も事実もありません」としていた。(スポニチアネックス)

大学は教育機関であることを忘れているかのような慶大の弁明である。
そのそも教育機関、殊に高等教育機関では未然を防止することに教育の主要な目標があって、已然としての事件性が確認できなかったという土俵で問題に対処すべきことではない。
未然に防止できなかった責任が問われているのである。勿論教育の機能として未然防止が出来るのは理想に過ぎないかも知れない。それでも教育機関として機能していなかったことを何よりも謝罪し深刻に反省すべきであったろう。
独自にサークル活動の停止を命じていること自体が既に事件性を認識した上のことなのである。そのことを踏まえて教授会で該当学生の行為について議論し問題にするのが、教育機関としての最低限の責務であった。疑わしい行為、慶応大学生として品位にかける行為があると判断できれば、それ相応の教育的処置をして然るべきであった。だから倶楽部の活動停止を決めたのである。事件性の確認が取れなかったというのに、活動停止処分をするのは、学生の自治活動の侵害になるであろう。自己矛盾も甚だしい弁明である。
「男がたくさんいるところに、なぜ1人で参加したのか」などと関係者らから責め立てるような声が上がっているとの情報もあり」(同上)
この批判は、女子のみならず男性に対する差別を示す低劣な発言である。大勢の男性の中に、理由の如何を問わず女性が加わるのは乱暴されることがあっても已むを得ないということをいっているようなものである。京大のアメフトの学生が女子学生に乱暴を働いたときに、当時のアメフトの監督が女子学生の行動に疑念を呈していたのと同じである。男子は女子を乱暴の対象としてみている場合もあるということを含意していよう。男女の問題は微妙である。女性が男性を「嵌める」場合も多々あるからである。
一般化すれば、犯罪を誘発する行為も問題であるとの立場であろう。とすれば信義則が崩壊している、信義則はどこで成り立つのかとも言えるかも知れない。
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