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みみずと蚯蚓 [言葉]

今朝の俳句教室か何かのテレビ番組で「みみず」を詠んだ人の句作について、俳句の選者が「みみず」は漢字で書きなさいと注意をしていた。みみずを漢字でどう書くのか咄嗟に思い浮かばなくて、辞書を引いて確認した。
何故俳句では「ミミズ」を漢字で書く方がいいのか、その説明はなかった。俳句を5万句以上収めている電子版の句集を検索してみた。
「みみず」を詠む句は二十数句ヒットして、一句だけが「みみず」と表記していて、後は一茶や子規の句を含め、いずれも「蚯蚓」と漢字で書かれている。俳句の世界では、みみずを漢字で表記するのが伝統なのだと知った次第である。
「出るやいな蚯蚓は蟻に引かれけり」(一茶)
雨上がりには蚯蚓が地表に出て来て、干上がったり、のたうっているミミズが蟻に引かれる情景は屡々見受ける。この一句も変哲も無い句であるが、描写の率直さが面白いと思った。もっとも読みようによっては、自然界の恐ろしい情景の一端を詠んでいるようにも読めるし、人事に仮託して読むことも出来るが。
これを「出るやいなみみずは蟻にひかれけり」とか「出るやいなミミズは蟻に引かれけり」と表記するとどのような受け止め方になるのかその相違点は余りピンと来ないが、音声としてのことばだけでなく、書かれた文字の視覚的な受け止め方も俳句にはあるということなのであろう。
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「男女七歳にして席を同じうせず」誤読と誤解 [言葉]

今日の日経の「遊遊漢字学」のコラムで漢字学の大家が「男女七歳にして席を同じうせず」の誤解が、「戦前の日本の小学校は、男女が同じ学校の敷地にいたが、三年以上はクラスが男女に分かれていた。」という教育政策を生んだと指摘されている。
そして、『誤読の原因は、「席」という字を「座席」と解釈したことにある。「席」は、ふとんの意であって、「席」は本来「敷物・ゴザ」を表し、ここでは「ふとん」という意味で使われている。「男女七歳にして席を同じうせず」は、男の子と女の子は七歳になったら同じふとんで寝かせてはいけない、という意味であった」と大胆な解釈をされている。
詩経には、「我が心石にあらず、転ずべからず、我が心席にあらず、巻くべからず」という一句もあって、ここの「席」も上で言う「敷物・ゴザ」つまり「むしろ」である。座るために用いられるむしろを表す席の字が、敷衍されて、経書でも座位あるいは座る場所を表す意味で使われている。従って男女七歳にして席を同じうせずの席を座席と解釈するのが誤読と言い切ることはできないだろう。
そもそも原典である「内則」篇を載せる「礼記(らいき)」なる書物、及びそこに書かれていることを含め、礼それ自体は、「礼は庶人に下らず」というように、士大夫以上の身分に適用される規範であって、その規範を義務教育の小学校に援用した教育政策と思想の担い手が何を国民に求めていたかが問われるべきことのように思う。
誤読ではなく、誤解を敢えてしてまで、つまり曲解までして教育政策を遂行して国民を教導しようとした政権把持者が大日本帝国憲法と教育勅語を生んだ意識精神だと言うことであろう。今でも女性天皇や女性宮家に否定的な立場の人達の意識と通底するのだろう。
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勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし [言葉]

〈勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし〉──名将・野村克也氏の有名すぎる至言だ。球団ワースト記録を更新した巨人のドロ沼連敗にも、「不思議」はない。(週刊ポスト2017年6月23日号)
この名言が野村克也氏の識見に基づくものであるとこの記事の記者は思い込んでいるようである。多くのプロ野球ファンやプロアマを問わず野球の指導者の多くも野村氏の啓発だと思って、選手や監督としての彼の偉大さだけでなく、野球を通じて事の本質を衝いている人物だと敬服しているように思う。
しかし、この名言は江戸時代の松浦静山の言葉なのである。野村氏は野球関係者の中では書を善く人だといわれ、本人も選手に野球だけでなく書物も読めと薦めていることで知られている。色々な書物を読んでいて、勝負師としての痛い体験がこの言葉に深い共感を特に覚えたのだろうと察する。
彼は上記の名言について典拠を明示して語ったり、書いているかどうかということについては寡聞にして知らないが、学者や研究者の論文ではないから、典拠を明示していなくても、然したる問題はないかも知れないだろう。或いは、この名言は人口に膾炙していて典拠を示すまでもない周知の至言だとして使っているのかも知れない。
何故この名言の典拠を問題にしていることになったかというと、友人から貰った抜き刷りを読んでいて、典拠を持つ言葉だと知った不明・無知を恥じ入ったからである。
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かしこまりました。 [言葉]

漢字表記すると、「畏まりました」となる。友人と訪れた某ビヤホールでのこと。
我々の注文を受けた若い女性店員が上記の言葉で応答したので、ここの店での接客教育による言葉遣いなのかどうかを尋ねたら、前勤めていた店で使っていた言葉だとのことであった。
そんなにいろいろな店に顔を出している訳でもないので、この言葉は普通に使われているのかもしれないが、客に対する言葉としては行き届いていると感じた。漢語の響きを残す「承知しました」とも違い、また「承りました」とも異なる床しさが感じさせた。英語では、Yes,sir. Yes ma'am. とか、Certainly.と表現するようだが、平板な響きを感じるが、この「畏まりました」というのは、語感からみても客との距離を保ちつつ、注文を受けた有り難さをも表していて、そこはかとない床しさを感じさせる表現のように思われる。
およそ半世紀も前の事になるが、十代の少年に「恐れ多い」とはどういう意味かと問われて面食らった事があった。そのことを恩師に言うと笑いながら「それこそ恐れ多いことですね」と返答されたことがあった。
何となく使って分かったつもりでいたが、よく考えてみれば、「恐れ多い」というのも「畏まる」というのも、難しい言葉である。神聖なるもの、優れたもの、或は疎かにしてはならないもに対して向き合うときの心的境地を表現するものであろう。向き合う側からすると己の存在を向き合うものよりもより小さなものと認識している心的状態であると言えるであろうか。
今朝の朝刊の雑誌の広告面に「田母神、只今、晴レテ帰還シマシタ!」「不徳を恥じるも私心なし」との独占手記が掲載されているとあった。公職選挙法違反容疑で逮捕され、170日の勾留が明けたことをこのように表現している。公選法違反は不徳ではなく、違法行為であって犯罪である。公職選挙法違反を犯しながら晴れて帰還したもないと思う。この程度の法や徳の理解で航空幕僚長の任についていたのであろうか。彼の理解では、公職選挙法は法ではなく、選挙運動は徳で対処すべきこということになろう。不徳というのだから、公職選挙法に違背したことは認めるが、法的には違反していない、少なくともとるに足らない些末な問題だという論理になる。横領罪は不起訴とあるから、公選法違反では起訴されているのだから、紛う事なく法律違反を犯しているのである。言ってみれば、徳に悖り、法にも触れた行為をしたことを自ら認めていて、どうして「晴レテ」と言えるのかそれこそ、「恐れ多い」知性と感性である。世間ではこのような所業は、尊大きわまりないとか厚顔無恥というのではなかろうか。こうした意識や感性は、更迭された復興担当大臣の東北大震災に対する暴言と通底しているのであろうか。
ついでに申せば、この同じ雑誌の広告に、某有力大学の名誉教授が<教育勅語「一旦緩急あれば」でよいのです>という表題が載っている。推察するに、緩急という漢語表現は、多少のように対になる熟語の構造で片方の少の字に重きが置かれているのと同じように、緩いには意味の重点がなく急なる字に意味があるということを問題にされているのではなかろうか。もしこの論が、教育勅語の中身の思想を問題視せずに表現の問題だけに焦点を当てて、教育勅語それ自体の評価に触れていないとすれば、緩急を誤解したのと同じ事になるであろう。
名誉教授は、学校教育法上認められている称号であるが、著者自身の関わりのないところで、雑誌の編集者が、内容の権威付けに用いているとすれば、これまた「恐れ多い」所業である。
「虚しくは名有らず」ともいうので、名も重要な表徴であるが、もっと重要な事は内容であり、中身であろう。東京都民が知事選びに不明であったのはその最たるものの一つかもしれない。

パン屋とお菓子屋論争 [言葉]

教科書で、パン屋と記した記述が日本的なるものを外来語で表現するのが不適切だとかの理由で、改筆を迫られ、お菓子屋に改めて審査を通ったということを聞いて、文科省の教科書検定者の日本文化理解の質を疑った。
教科書検定を否定する立場の人もいるが、教科書の執筆者には大らかな人もいて第三者の点検も必要な事例も数多くあるようだから、その問題は別にしても、戦前の野球用語のアウトをダメと言わせたりするのと何ら変わりはない。
パン業界の人達が自らの貢献を強調する前に、思想表現の自由や日本語の問題を取り上げるべきであった。
パンは、辞書によるとポルトガル語に由来するようだが、この言葉が人口に膾炙したのが明治維新後だとしても、一世紀は優に超えている。
菓子の、「菓」は「果」と同義語で、「子」は「金子」の所で既に触れたように中国語の接尾辞的語であって、「果子」は中国語では「果物」のことをいう。菓子も同じである。
ただ、日本では、今風に言えばスイーツに類するものを「菓子」と使い分けているにすぎない。従って、パンも菓子も外来語に由来しているのであって、菓子の用例には少しばかり工夫が働いているだけに過ぎない。
菓子パンという日本独自のパン進化もあるではないか。
教科書の文章を改めさせる根拠としては余りにも貧弱な日本語や日本文化への理解である。

「金子」 [言葉]

昨日の毎日新聞で漢字の使い方の問題に関連して、過日の証人喚問で籠池氏が「金子」という余り最近では使わない言葉を使っていたと書いていた。
籠池氏は沖縄県の翁長知事を中国の手先と侮辱的な発言をSNSで発信していることについては既に記した。
この「金子」という語の「子」は、名詞の後に接尾辞的に使って名詞を作る中国語に基づいている。「帽子」などもそうだし、成人未満の子供を中国語で「孩子」と言ったりするのもそれに当たる。
漢字・漢語や中国語を使わずに意思を表現するのは至難であるが、わざわざ我々が日常に使い慣れない言葉を使って金銭のことを表現しているのである。彼らが国粋主義者として右翼的思想を誇って韓国や中国を軽侮したりしていても、その中身は知れている、中国的思考の影響を受けているということなのであろう。そうした自覚もないのに日本的な思想として教育勅語を教育理念に掲げたりするのも摩訶不思議である。
いっそ大阪人として「ぜぜこ」と「じぇじぇこ」と言った方が国粋的だったのではなかろうか。
産経新聞は、籠池氏の小学校設立に寄付した人の籠池氏批判を挙げて、彼の虚偽性や詐欺まがいを批判して安倍首相夫妻の擁護に躍起になっているようだが、そうした安倍首相夫妻の荷担をすればするほど、安倍首相夫妻と籠池氏とは類が類を呼んだのだということを暗々裏に語っているようなものであろう。

田母神俊雄元航空幕僚長閣下の森友学園擁護(承前) [言葉]

田母神氏は、森友学園を攻撃するのは、反日的日本人だとつぶやいたことについては既に記した通りである。
今回の籠池泰典理事長の国会の証人喚問でなされた自民党や公明党、維新の党の議員のみならず、自民党や公明党、加えて維新の党の幹部の喚問での籠池氏の証言を評して、嘘つき、虚言癖があることが明白になったなどと寄ってたかって籠池氏の人間性を否定する所にまで立ち至っている。
この喚問は、国有財産が不当に廉価に払い下げられたことを究明するところにあった。自公維新の議員の質疑は、ひたすら首相の寄付の有無に焦点を当てて悪魔の証明問題に引きづろうとしただけであった。
大阪府は森友学園への補助金(私学助成)を中止するとまでの報復手段に走っている。府知事が指弾されたことへの行政的仕返しであることは、どのような理由を付けようとも、明白であろう。
縷々綴るまでもなく、自民公明維新の党の議員は、田母神氏に倣って言えば、日本の政治をキチンと導こうとするのではなく、歪めているということになるという意味で反日的日本人という範疇に括ってみたくなる。田母神氏の森友学園擁護は正鵠を射ぬいていたのであろうか。
国粋的右翼組織の一つである日本会議の議長が「安倍首相に憲法改正などの自らの政治信条達成の望みを託していたが、憲法改正への意欲よりも、自らの政権維持に軸足をおいている」という趣旨の発言をしていた。
今は日本会議から離脱しているとされる元日本会議の有力な同志であった籠池氏への今回の国会での安倍首相や政権与党などの対応振りをみて、安倍首相頼むに足らずとしてより原理的に日本会議を支持する政治家の誕生を目論むことがより静に深く潜行して行くのではないかと危惧している。
過激な右翼思想がこの状況を打開しようとして、5.15事件や2.26事件のようなこと、三島由紀夫事件のようなことが惹起されるかも知れないと妄想している。この危惧が妄念でないことを祈るのみである。

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安倍首相夫人の反省 [言葉]

安倍首相夫人の昭恵氏は24日、北九州市で講演した。  参加者によると、学校法人「森友学園」(大阪市)の問題について、「多くの方をお騒がせすることになった。自分に甘さがあったのではないかと反省している」と述べたという。  講演は九州の財界関係者でつくる一般社団法人「九州賢人会議所」の主催で、非公開で行われた。昭恵氏は冒頭、「私は普通の主婦で、普通の女性。『主人のため』『国のため』と一生懸命やっているつもりだった」と語り、声を詰まらせた。問題については「発言は控えたい」と述べ、具体的な言及はなかった。(YOMIURI ONLINE
別の記事などによると、夫人は涙を拭ったとかの表現もあったが、上の記事も「普通の主婦とか普通の女性」という表現で夫人の女性性に依拠して、今回の森友学園の籠池泰典理事長の証言を嘘偽り虚言癖に基づいていて首相の言葉を借りれば一生懸命に努めている女性に対する悪意のある証言という反論を補完する意図を感じさせる。社会で活躍している女性から見れば、首相夫人としてもっとしっかりしてよと言いたいところであろう。
女性差別の最大の敵は女性だと言われたりするが、女性であろうが、主婦であろうが、甘さがあろうが、そのようなことで問題の本質をはぐらかしてはならない。女性参画社会を標榜する安倍首相は率先して夫人が喚問に応ずることに同意すべきであろう。
100万円の寄付は記憶していない、とか講演料は貰っていないとか言う片方で、「自分に甘さがあったのではないか」と言う以上は、その甘さとは何を指しているのかぐらい国会の場で証言すれば良いのである。名誉校長になったことが甘さだったのか、籠池泰典理事長の教育理念は別にしてその人間性を見抜く力に甘さがあったのか、はたまたメールのやりとりをした籠池氏夫人との交際を恥じているのかなどなど、語るべき反省は個人的なものではない。普通の女性、普通の主婦としても問われかねない問題であろう。首相夫人としてむしろ森友学園の教育理念に肩入れして名誉校長を引き受けたという視点で言えば、むしろ首相を内助しようとして森友学園を利用していたとも言われかねない行為であろう。
普通の主婦や女性は政府専用機になど間違っても搭乗できない。もし私人だというならば、厳密に言えば、飛行機代をポケットマネーで支払っていたのか。或いは首相の俸給から夫人の飛行機料金を差し引いているのか、ということにもなろう。
このような振る舞いをしていること自体、籠池氏の証言の信憑性を高い確率で担保しているようなことになるだろう。それこそ自己の甘さを懲りずに露呈しているのかも知れないではないか。
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隠れたるより見(あら)わるるは莫し [言葉]

昨日の籠池泰典理事長の衆参両院での証人喚問は、音声を消したWBCの決勝戦を見ながら拝聴した。
籠池氏の言動には信がおけないということを何とか印象づけようとする質問に終始していたのが、自公及び維新の党の議員諸氏であった。特に首相夫人からの寄付の有無の問題では、明確に名誉なこととして受領したと答えいて、一貫性があった。今朝の新聞報道などでは、夫人は、講演料も寄付もしていないとのコメントを出している。首相も「密室のやりとりで、反証できない事実に反することをのべられたことは誠に遺憾だ」と重ねて否定している(時事通信)。首相の寄付金は夫人に託されたのだというのが証言なのだから、「密室のやりとりで」というのも奇妙である。
学校法人はその法人の教育理念に賛同したりする人々の寄付によって成り立つことが多い。寄付行為による法人の設立が原則である。記念事業なのでは、寄付を同窓生や会社に募ったりしている。だから、小学校設立に当たって、首相なり、夫人が寄付をすることは決して法的にも徳義的にも問題にされることでもないだろう。公的資金の助成を受けている法人が政治家などに寄付をするのは禁ぜられているが、政党交付金を受けている議員が学校法人などに寄付をするのは法的に問題があるのかどうかは不案内である。首相が私人として寄付していれば法に抵触するとも思えない。むしろ、母校の記念事業などに卒業生として議員が寄付できないというのであれば、問題と思う。夫人は名誉校長までしているのだから、寄付したことを無かったとすることの方が奇妙なように思う。森友学園の教育理念が公になって、極端な思想に基づいているので、寄付をしなかったと言っているとすれば、また話は別である。
ところで、自民党の幹部などは「ないことやなかったことを証明するのは困難である」という趣旨のことを述べている。悪魔の証明とも言われる。
岐阜県の美濃加茂市長の藤井氏が市議会議員時代に業者からの賄賂を受け取ったか否かの問題で、業者は賄賂を送ったと供述して、藤井氏は受け取っていないと主張して、裁判では有罪判決が出て、結局は辞職して立候補し再選されたことが耳新しい。
籠池氏は、神のみぞ知るとか言っているそうだが、神と称せられる存在は、心の中にこそいることを言っているのが標題の古語である。悪魔の証明への反証かもしれない。嘘は人にはつけても自らにはつけないということをも言う言葉である。

先生 生徒のなれの果て [言葉]

この揶揄めいた戯れ言は今では余り聞かれなくなった。先生!先生!と威張っていても結局は今教えている生徒の行き着いた先ではないか、という程度の意味でもあろう。あるいは、生徒が先生よりも偉くなって嘗ての先生に何時までも同じ境遇にいることを冷やかしているとも理解できる。出藍の誉れに近いかも知れない。
この傳に倣えば、森友学園 日本会議のなれの果て というようなことになるであろうか。
日本会議の思想を母体にして教育勅語を幼児に暗唱させ、はたまた安保法制を礼賛させ、安倍首相夫妻を称賛して、日本会議の精神を見事に体現してくれている。あるいは、日本会議が未だに穏やかな日本礼賛に留まっていることに業を煮やして速く附いてこいとせっついているようにも見える。
思うに、今言論の自由を拠り所にして、愛国精神を振りかざしている日本会議の宣伝隊と思しき著述家や演説隊の面々は、日本会議の精神が跳梁して日本政治を掌握し、言論の自由も封殺するようになって、その役割をを終えたとき、次はどのような役割を果たすことになるのであろうか。より過激に、否、言を緩くして言えば、原理的に日本精神を鼓舞するしか自らの存在価値を示せなくなるのであろうことは充分推測できることである。
最左翼は左翼を時代遅れとして過激になったように、右翼とてその先端を走ろうとすれば、より過激な最右翼になるしかないのはものごとの道理であろうから。
「中庸の徳たる、至れるかな、民 鮮くなきこと久し」と言うことであろうか。