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民進党玉木議員「特大ブーメラン生産」の理由とビッグ・ピクチャー [言葉]

森友学園問題、あるいは加計学園問題が報じられて以降、民進党は安倍首相に対して「潔白ならば自分で証明せよ」と求めてきた。そのロジックは、ごく簡単に言えば「こちらにはクロの決定的証拠はない。しかし、怪しいと考えている。もしも首相がシロだというのならシロだという証拠を出せ」というもの。「何もやっていないことの証明」すなわち、「悪魔の証明」に等しいことを延々と求めてきたのである。

 同じ手法を玉木氏に応用すれば、こういうことだ。

「獣医師連盟の意向とは一切関係ないというのならば、その証拠を出せ」

 厄介なのは、首相と異なり、玉木氏は明らかに献金を受けているという点だろう。玉木氏は献金の時期が古いことなどを根拠に潔白を主張しているが、ネット上での氏への批判を見る限り、あまり奏功しているとは言い難い。

「時期が古いからといって、意向を受けていない証拠にはならないだろう。意向を受けていないというのなら、その証拠を示せ」

 結局、こういうツッコミが返ってくる。

 そう、やはりブーメランが戻ってくるのである。
一つの有効なヒントは、「ビッグ・ピクチャー」の視点を持つことだ。フリー記者の烏賀陽弘道氏は、新著『フェイクニュースの見分け方』の中で、こう解説をしている。

「『ビッグ・ピクチャー』とは、ある事実Fがあったときに、『空間軸』と『時間軸』を広げ、その座標軸に事実Fを置いて検証しなおしてみることだ。

 英語では“ You must see it in a big picture”という慣用句にもなっている。『視野を広げて考えてごらんよ』というような意味だ」
言い換えると、何かの事象について考える際に、「それよりも前の事柄」「他の地域、国での事柄」にも視野を広げてみるということである。烏賀陽氏は、これを情報の検証をする際に必要な姿勢として説く。この「ビッグ・ピクチャー」の視点を持つことは、自分自身の言動をチェックする際にもそのまま有効なのは明らかだろう。(デイリー新潮編集部)
この論点というか、問題提起はいろいろと考えさせてくれて興味深い。
アットランダムに取り上げれば、玉木議員が反撃されたことをブーメランという物理的現象を比喩にして表現していることである。分かり易く言えば、玉木議員は加計問題で安倍首相を追及しているが、玉木議員も同じ穴の狢であって、批判の資格があるや無しやという点が問われ、すねに傷持つ玉木議員は安倍首相を裁いたり糾弾したりはできない、ということになるような論の導き方である。
言い換えれば、献金を受けていることが明白になっている立場だからこそ、極めて近しい関係にある安倍首相と加計学園やその理事長との関係について明白にすることが出来ることを許されないということを含意していることになろう。別言すれば、国会は国民に対して事実や事態がどうなっているかを明らかにする場であるということを等閑視して、論点を逸らそうとしているのではないかという疑念を抱かせるように、ブーメラン現象という等しく誰もが認めている物理的事象で合理性が担保されたかのように錯覚させている。そもそもブーメランとて投げ方の巧拙で投げ手に戻って来るかどうかは分からない代物である。
烏賀陽弘道氏の『フェイクニュースの見分け方』を読んでいないが、彼が引用している英語の慣用句“ You must see it in a big picture”という言葉は西洋人の世界観を考えるに当たって興味深い。
[in a big picture]をどのように理解するか。 a big pictureをこの地球と理解するか、或いは宇宙全体として捉えるか。一神教の世界観では神がこの世界を造りたもうたという神の絶対化が根底にある。その神は誰が造ったのかという問いは許さないのがキリスト教の論理である。敬虔なクリスチャンは今でも人間はサルから進化したということは断じて信じない。そのような世界で生きている人々の慣用句の a big pictureとは何かを知ることも大切なように思う。
地球は青かったと評した宇宙飛行士の視点は、正に a big pictureの視点である。荘子は、こちらから空を見ていると青く見えるが、彼方から見たらこちらも青く見えるだろうと言っている。一般に荘子の思惟は絶対的相対主義と言われているが、ブーメランという物理的現象で評するよりも、自己をどれだけ相対化できるかという視点を持つことが大切であるかといえば、問題の本質は分かり易くなるのではないかと存念する。
人の行為の背後には禄利の問題があることなども無視できないことなどなどまだ幾つか駄弁ってみたいこともあるが、些か堂々巡りに陥りかねないのでここらで筆を擱くこととする。
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李下に冠を正さず [言葉]

「瓜田に履を納れず」がこの後に続くのだが、後の一句は馴染みが薄い。
安倍首相は昨日の閉会中審査に出席してこの言葉を敢えて言えば弄していた。
李下に冠を正し、瓜田に履を納れたからこそ、閉会中審査なる事態になったのだという認識の欠落がこの言葉を使わしめたとしか言い様がない。それともこの俚諺を念頭に置いておくべきであったという内心の反省の巧まざる吐露だったのであろうか。
昨日の毎日新聞は次のような記事を載せている。
闘病中のマケイン氏がオバマ氏との大統領選挙で争った時、「オバマは信用できない。彼はアラブ人だ」と発言した女性支持者に「違います。彼は家族を愛するまっとうなアメリカ市民です。彼と私はたまたま基本的な事柄について意見が異なるだけです」と諭した。
「オバマ氏が大統領になっても恐れる必要はない。この國の政治は相手への敬意が基本だ」述べたという。

安倍首相は、「こんな人達に負けるわけにはいかない」と激高したことへの反省の弁を述べているが、あの時自民党の青年部がどこからともなく出て来て、青旗を掲げ林立させて安倍首相を防御したことには党総裁として何の反省も述べていない。あの青旗の林立は異常で一種の脅迫めいた印象を抱いた。テレビですらそうだから現場に居た人達はもっと強い脅威を感じたのではないかと推察している。
この青年部の青旗の林立は、自民党という政党の本質が見事に現れていて、稲田防衛相が防衛相としても自衛隊としても選挙には自民党に投じて欲しいというのと同じレベルの意識である。異なった見解の国民は国民とは見なしていない、若しくは見なさないという意識と感覚なのだと言うことである。

閉鎖的な思考とは [言葉]

総合機械メーカーの不二越(富山市不二越本町)が5日、本社の東京一本化を発表した会見の席上、本間博夫会長(71)が採用に関し「富山で生まれ地方の大学に行ったとしても、私は極力採らない」「偏見かも分からないが、閉鎖的な考え方が強い」などと発言した。(北日本新聞)
この記事を読んでどちらが閉鎖的な考え方なのか、疑問を抱いたのは筆者だけではないだろう。
不二越といえば、世界の企業になったのだから、本社の東京一本化に踏み切ったのだろうが、何が閉鎖的であるかはさておいても、閉鎖的な考え方も多様性の一つを形成しているのである。
「本間」という姓からみれば、本間様の一統の流れを汲んでいるのだろうが、夫子自身のことを言っているのかも知れないとも思ったりしている。いずれにせよ思考回路に狂いが生じているのではないかと他事ながら懸念を覚える。

みみずと蚯蚓 [言葉]

今朝の俳句教室か何かのテレビ番組で「みみず」を詠んだ人の句作について、俳句の選者が「みみず」は漢字で書きなさいと注意をしていた。みみずを漢字でどう書くのか咄嗟に思い浮かばなくて、辞書を引いて確認した。
何故俳句では「ミミズ」を漢字で書く方がいいのか、その説明はなかった。俳句を5万句以上収めている電子版の句集を検索してみた。
「みみず」を詠む句は二十数句ヒットして、一句だけが「みみず」と表記していて、後は一茶や子規の句を含め、いずれも「蚯蚓」と漢字で書かれている。俳句の世界では、みみずを漢字で表記するのが伝統なのだと知った次第である。
「出るやいな蚯蚓は蟻に引かれけり」(一茶)
雨上がりには蚯蚓が地表に出て来て、干上がったり、のたうっているミミズが蟻に引かれる情景は屡々見受ける。この一句も変哲も無い句であるが、描写の率直さが面白いと思った。もっとも読みようによっては、自然界の恐ろしい情景の一端を詠んでいるようにも読めるし、人事に仮託して読むことも出来るが。
これを「出るやいなみみずは蟻にひかれけり」とか「出るやいなミミズは蟻に引かれけり」と表記するとどのような受け止め方になるのかその相違点は余りピンと来ないが、音声としてのことばだけでなく、書かれた文字の視覚的な受け止め方も俳句にはあるということなのであろう。
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「男女七歳にして席を同じうせず」誤読と誤解 [言葉]

今日の日経の「遊遊漢字学」のコラムで漢字学の大家が「男女七歳にして席を同じうせず」の誤解が、「戦前の日本の小学校は、男女が同じ学校の敷地にいたが、三年以上はクラスが男女に分かれていた。」という教育政策を生んだと指摘されている。
そして、『誤読の原因は、「席」という字を「座席」と解釈したことにある。「席」は、ふとんの意であって、「席」は本来「敷物・ゴザ」を表し、ここでは「ふとん」という意味で使われている。「男女七歳にして席を同じうせず」は、男の子と女の子は七歳になったら同じふとんで寝かせてはいけない、という意味であった」と大胆な解釈をされている。
詩経には、「我が心石にあらず、転ずべからず、我が心席にあらず、巻くべからず」という一句もあって、ここの「席」も上で言う「敷物・ゴザ」つまり「むしろ」である。座るために用いられるむしろを表す席の字が、敷衍されて、経書でも座位あるいは座る場所を表す意味で使われている。従って男女七歳にして席を同じうせずの席を座席と解釈するのが誤読と言い切ることはできないだろう。
そもそも原典である「内則」篇を載せる「礼記(らいき)」なる書物、及びそこに書かれていることを含め、礼それ自体は、「礼は庶人に下らず」というように、士大夫以上の身分に適用される規範であって、その規範を義務教育の小学校に援用した教育政策と思想の担い手が何を国民に求めていたかが問われるべきことのように思う。
誤読ではなく、誤解を敢えてしてまで、つまり曲解までして教育政策を遂行して国民を教導しようとした政権把持者が大日本帝国憲法と教育勅語を生んだ意識精神だと言うことであろう。今でも女性天皇や女性宮家に否定的な立場の人達の意識と通底するのだろう。
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勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし [言葉]

〈勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし〉──名将・野村克也氏の有名すぎる至言だ。球団ワースト記録を更新した巨人のドロ沼連敗にも、「不思議」はない。(週刊ポスト2017年6月23日号)
この名言が野村克也氏の識見に基づくものであるとこの記事の記者は思い込んでいるようである。多くのプロ野球ファンやプロアマを問わず野球の指導者の多くも野村氏の啓発だと思って、選手や監督としての彼の偉大さだけでなく、野球を通じて事の本質を衝いている人物だと敬服しているように思う。
しかし、この名言は江戸時代の松浦静山の言葉なのである。野村氏は野球関係者の中では書を善く人だといわれ、本人も選手に野球だけでなく書物も読めと薦めていることで知られている。色々な書物を読んでいて、勝負師としての痛い体験がこの言葉に深い共感を特に覚えたのだろうと察する。
彼は上記の名言について典拠を明示して語ったり、書いているかどうかということについては寡聞にして知らないが、学者や研究者の論文ではないから、典拠を明示していなくても、然したる問題はないかも知れないだろう。或いは、この名言は人口に膾炙していて典拠を示すまでもない周知の至言だとして使っているのかも知れない。
何故この名言の典拠を問題にしていることになったかというと、友人から貰った抜き刷りを読んでいて、典拠を持つ言葉だと知った不明・無知を恥じ入ったからである。
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かしこまりました。 [言葉]

漢字表記すると、「畏まりました」となる。友人と訪れた某ビヤホールでのこと。
我々の注文を受けた若い女性店員が上記の言葉で応答したので、ここの店での接客教育による言葉遣いなのかどうかを尋ねたら、前勤めていた店で使っていた言葉だとのことであった。
そんなにいろいろな店に顔を出している訳でもないので、この言葉は普通に使われているのかもしれないが、客に対する言葉としては行き届いていると感じた。漢語の響きを残す「承知しました」とも違い、また「承りました」とも異なる床しさが感じさせた。英語では、Yes,sir. Yes ma'am. とか、Certainly.と表現するようだが、平板な響きを感じるが、この「畏まりました」というのは、語感からみても客との距離を保ちつつ、注文を受けた有り難さをも表していて、そこはかとない床しさを感じさせる表現のように思われる。
およそ半世紀も前の事になるが、十代の少年に「恐れ多い」とはどういう意味かと問われて面食らった事があった。そのことを恩師に言うと笑いながら「それこそ恐れ多いことですね」と返答されたことがあった。
何となく使って分かったつもりでいたが、よく考えてみれば、「恐れ多い」というのも「畏まる」というのも、難しい言葉である。神聖なるもの、優れたもの、或は疎かにしてはならないもに対して向き合うときの心的境地を表現するものであろう。向き合う側からすると己の存在を向き合うものよりもより小さなものと認識している心的状態であると言えるであろうか。
今朝の朝刊の雑誌の広告面に「田母神、只今、晴レテ帰還シマシタ!」「不徳を恥じるも私心なし」との独占手記が掲載されているとあった。公職選挙法違反容疑で逮捕され、170日の勾留が明けたことをこのように表現している。公選法違反は不徳ではなく、違法行為であって犯罪である。公職選挙法違反を犯しながら晴れて帰還したもないと思う。この程度の法や徳の理解で航空幕僚長の任についていたのであろうか。彼の理解では、公職選挙法は法ではなく、選挙運動は徳で対処すべきこということになろう。不徳というのだから、公職選挙法に違背したことは認めるが、法的には違反していない、少なくともとるに足らない些末な問題だという論理になる。横領罪は不起訴とあるから、公選法違反では起訴されているのだから、紛う事なく法律違反を犯しているのである。言ってみれば、徳に悖り、法にも触れた行為をしたことを自ら認めていて、どうして「晴レテ」と言えるのかそれこそ、「恐れ多い」知性と感性である。世間ではこのような所業は、尊大きわまりないとか厚顔無恥というのではなかろうか。こうした意識や感性は、更迭された復興担当大臣の東北大震災に対する暴言と通底しているのであろうか。
ついでに申せば、この同じ雑誌の広告に、某有力大学の名誉教授が<教育勅語「一旦緩急あれば」でよいのです>という表題が載っている。推察するに、緩急という漢語表現は、多少のように対になる熟語の構造で片方の少の字に重きが置かれているのと同じように、緩いには意味の重点がなく急なる字に意味があるということを問題にされているのではなかろうか。もしこの論が、教育勅語の中身の思想を問題視せずに表現の問題だけに焦点を当てて、教育勅語それ自体の評価に触れていないとすれば、緩急を誤解したのと同じ事になるであろう。
名誉教授は、学校教育法上認められている称号であるが、著者自身の関わりのないところで、雑誌の編集者が、内容の権威付けに用いているとすれば、これまた「恐れ多い」所業である。
「虚しくは名有らず」ともいうので、名も重要な表徴であるが、もっと重要な事は内容であり、中身であろう。東京都民が知事選びに不明であったのはその最たるものの一つかもしれない。

パン屋とお菓子屋論争 [言葉]

教科書で、パン屋と記した記述が日本的なるものを外来語で表現するのが不適切だとかの理由で、改筆を迫られ、お菓子屋に改めて審査を通ったということを聞いて、文科省の教科書検定者の日本文化理解の質を疑った。
教科書検定を否定する立場の人もいるが、教科書の執筆者には大らかな人もいて第三者の点検も必要な事例も数多くあるようだから、その問題は別にしても、戦前の野球用語のアウトをダメと言わせたりするのと何ら変わりはない。
パン業界の人達が自らの貢献を強調する前に、思想表現の自由や日本語の問題を取り上げるべきであった。
パンは、辞書によるとポルトガル語に由来するようだが、この言葉が人口に膾炙したのが明治維新後だとしても、一世紀は優に超えている。
菓子の、「菓」は「果」と同義語で、「子」は「金子」の所で既に触れたように中国語の接尾辞的語であって、「果子」は中国語では「果物」のことをいう。菓子も同じである。
ただ、日本では、今風に言えばスイーツに類するものを「菓子」と使い分けているにすぎない。従って、パンも菓子も外来語に由来しているのであって、菓子の用例には少しばかり工夫が働いているだけに過ぎない。
菓子パンという日本独自のパン進化もあるではないか。
教科書の文章を改めさせる根拠としては余りにも貧弱な日本語や日本文化への理解である。

「金子」 [言葉]

昨日の毎日新聞で漢字の使い方の問題に関連して、過日の証人喚問で籠池氏が「金子」という余り最近では使わない言葉を使っていたと書いていた。
籠池氏は沖縄県の翁長知事を中国の手先と侮辱的な発言をSNSで発信していることについては既に記した。
この「金子」という語の「子」は、名詞の後に接尾辞的に使って名詞を作る中国語に基づいている。「帽子」などもそうだし、成人未満の子供を中国語で「孩子」と言ったりするのもそれに当たる。
漢字・漢語や中国語を使わずに意思を表現するのは至難であるが、わざわざ我々が日常に使い慣れない言葉を使って金銭のことを表現しているのである。彼らが国粋主義者として右翼的思想を誇って韓国や中国を軽侮したりしていても、その中身は知れている、中国的思考の影響を受けているということなのであろう。そうした自覚もないのに日本的な思想として教育勅語を教育理念に掲げたりするのも摩訶不思議である。
いっそ大阪人として「ぜぜこ」と「じぇじぇこ」と言った方が国粋的だったのではなかろうか。
産経新聞は、籠池氏の小学校設立に寄付した人の籠池氏批判を挙げて、彼の虚偽性や詐欺まがいを批判して安倍首相夫妻の擁護に躍起になっているようだが、そうした安倍首相夫妻の荷担をすればするほど、安倍首相夫妻と籠池氏とは類が類を呼んだのだということを暗々裏に語っているようなものであろう。

田母神俊雄元航空幕僚長閣下の森友学園擁護(承前) [言葉]

田母神氏は、森友学園を攻撃するのは、反日的日本人だとつぶやいたことについては既に記した通りである。
今回の籠池泰典理事長の国会の証人喚問でなされた自民党や公明党、維新の党の議員のみならず、自民党や公明党、加えて維新の党の幹部の喚問での籠池氏の証言を評して、嘘つき、虚言癖があることが明白になったなどと寄ってたかって籠池氏の人間性を否定する所にまで立ち至っている。
この喚問は、国有財産が不当に廉価に払い下げられたことを究明するところにあった。自公維新の議員の質疑は、ひたすら首相の寄付の有無に焦点を当てて悪魔の証明問題に引きづろうとしただけであった。
大阪府は森友学園への補助金(私学助成)を中止するとまでの報復手段に走っている。府知事が指弾されたことへの行政的仕返しであることは、どのような理由を付けようとも、明白であろう。
縷々綴るまでもなく、自民公明維新の党の議員は、田母神氏に倣って言えば、日本の政治をキチンと導こうとするのではなく、歪めているということになるという意味で反日的日本人という範疇に括ってみたくなる。田母神氏の森友学園擁護は正鵠を射ぬいていたのであろうか。
国粋的右翼組織の一つである日本会議の議長が「安倍首相に憲法改正などの自らの政治信条達成の望みを託していたが、憲法改正への意欲よりも、自らの政権維持に軸足をおいている」という趣旨の発言をしていた。
今は日本会議から離脱しているとされる元日本会議の有力な同志であった籠池氏への今回の国会での安倍首相や政権与党などの対応振りをみて、安倍首相頼むに足らずとしてより原理的に日本会議を支持する政治家の誕生を目論むことがより静に深く潜行して行くのではないかと危惧している。
過激な右翼思想がこの状況を打開しようとして、5.15事件や2.26事件のようなこと、三島由紀夫事件のようなことが惹起されるかも知れないと妄想している。この危惧が妄念でないことを祈るのみである。

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