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生活保護と大学進学 [教育]

国会でも生活保護受給者の子弟の大学進学について、審議議論され、生活保護受給者の子弟が大学進学するためには、今の所帯から抜けなければならない。その結果所帯の生活保護支給額は減額される、という。
少し論点はずれる点なしとしないが、昔、失業対策の一つとして所謂日雇い労働という制度があった。この制度に与るためには、一所帯一人と決められていて、夫婦が形式的に離婚してそれぞれが日雇い労働に従事して生活の糧を得ていたことということを想起する。
また、今日のように高校進学率が97%に達している時代とは異なって、高校進学率が50%を越える程度の時代にあっては、子弟の高校進学は生活保護受給要件に合致しなかった。つまり子弟を高校に進学させる家庭は、生活保護受給者として認められなかった。ただ、定時制高校進学の場合には生活保護受給が可能だったという記憶がある。
現在の大学・短大の進学率は多くてみても55%内外だとされる。上記の事例に照らせば、生活保護受給者の子弟の大学進学が許容されないのは、時代と社会の諸条件の向上があるとはいえ、当然な制度的措置かも知れない。
かつ、大学進学という点に絞れば、夜間大学もあれば、昼夜開講の大学、更には通信制大学もある。
夜間大学などの進学の場合も、生活保護受給資格に抵触するのかどうかを定かにしないが、もし夜間大学進学も生活保護支給要件の対象外だとすれば、夜間大学などの進学に関しては生活保護支給の対象にするように改めるべきだと思う。
国公立の夜間大学設置は、広い意味で言えば、社会保障制度の一環として捉えることも出来る。その視点に立てば、生活保護受給と大学進学を昼間の大学と限定しているような議論は些か問題であろう。
大学が変質して、大学自体が今や学問の府とはかけ離れている実態があったとしても、原理的には学ぶという営為は、所与の条件の中で最大限発揮しようと思えばできることである。換言すれ、一定の条件がなければ学べないというものでもない。高度な学問的営為が満たされる条件をどこに設定するかということと意欲の関係が問われているのだとすれば、生活保護受給所帯の子弟が一定の制約を負うのは、一般論としては決して不平等な制度的欠陥だとは言えないように考え、そのことが冷酷な対応だとは言えないように思う所大である。
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慰安婦像問題 [理念]

韓国の大統領弾劾に絡んで日本大使館の前に慰安婦像が設置されて、駐韓大使の召還という日韓関係に重大な齟齬軋轢を生じていて、韓国の次期大統領選挙でも重要な争点になりそうだという。
韓国兵がベトナム戦争に参戦してベトナムの女性に対する暴行などで生まれた子供は5000人を優に超えているとも言われる。このことが日本の韓国批判の立場の人から指摘されると、日本人の慰安婦問題をそらすための捏造だと強固な反日韓国人は反論するとか、という記事を読んだ。
日本が韓国女性のみならず慰安婦を強制し、韓国兵がベトナム女性を強姦したり慰安婦として虐げたことの歴史的事実の検証を越えて考えるべきことがあるはずだろう。
慰安婦像が作られている思想が反日嫌日感情に基づくものだけであるなら、その劣情はまだ底がしれているのかもしれない。国連事務総長まで務め、広い識見をもつと考えたい次期大統領選挙候補の潘基文氏まで慰安婦像問題について毅然とした姿勢を示していない。
慰安婦像設置の意味する所は、戦争時だけでなく、時と所を問わず女性に対する性的暴行、虐待への批判、非難、弾劾としての象徴的意味が込められているとする見方に立てば、大使館が治外法権の場所であるか否かを問うことでもなく、国境を越えたより根源的な男女不平等、引いては強い者が弱い者を虐げ凌ぐ驕りに対する普遍的な戒めの象徴として見ることだって出来るのではなかろうか。
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残業時間の上限設定 [社会問題]

政府が働き方改革に向け、残業時間の上限を年720時間、月平均60時間とする方向で調整していることが28日、分かった。

 繁忙期は月100時間まで認めるが、2カ月平均で月80時間の制限も設ける。青天井の残業が事実上可能な労使間の「36(さぶろく)協定」を見直し、ほぼ全業種・職種を対象に上限を設定。違反企業に罰則を科し、過労死を招くケースもある長時間労働を是正する。(時事通信)
半世紀も前、教員の残業つまり超勤問題を巡って日教組が超勤手当支給を求めて各地で提訴したことがあった。所謂超勤闘争である。提訴された案件について、各裁判所は日教組の主張を認めて、超勤手当を支給すべきであるとの判決がなされた。
この司法判断を受けて、政府は教員について本俸に対して一律3%の額を本俸に加算することで、労基法に定める超勤手当支給を教員には適用しない法制度を定めた。その結果今ではこの制度が悪用されて無制限に近い労働が課せられていて、知り合いの教員に言わせると教育界が一番のブラック企業であると言うほどの勤務実態が生ずることになっているのである。
課外活動の問題を含めて教員の過重労働が指摘されているが、政府が上記の案を実現したいのであれば、先ず隗より始めよではないが、公立学校の凡ての教員の勤務時間について3%の賃金を本俸から差し引いて、年間720時間を上限とし、月60時間を上限とした残業しかさせない。残業した場合はその手当を支給することに法改正することである。
月60時間の残業は、毎週5日間の労働日に割り振ると一日三時間の残業は許されるということになる。
働き方改革などと言っているが、為政者や統治者のやることはこの程度のことであって、これが法治主義の原理であり、法治国家の実態なのであろう。
民間企業は営利活動が目的であるから、利益を生むために人件費などの固定経費を減らすために、苛酷な残業を強いているのであろう。それが結局は人的資源の損失を生むことになっていることへの反省が働き方改革の中で残業規制を目論むことになったのであろう。
そもそも残業をしなくても良いような人員配置をすればいいのであろうが、それが出来ないのであるから、問題が生じているのであるとすれば、政府案も恐らく教員の超勤条項除外の例によってもたらされた苛酷な勤務を強いることに結びつく危惧が多大であろう。
こうした労働問題も労働者の権利として労働組合などの権利闘争として法整備がなされるのではなく、女性労働者の自殺が契機になって世論を意識しつつ、為政者が諮問会議や有識者会議を通して問題の本質を隠蔽する形でことが推し進められているところが日本的な独特な統治形態があるのかも知れない。
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早稲田の弁明 [教育]

天下り規制への理解が足りなかった--。文部科学省が元局長の天下りを組織的にあっせんした問題で、早稲田大学は20日、教授に再就職した吉田大輔・元高等教育局長の辞職を明らかにした。記者会見で陳謝した鎌田薫・早大総長は、再就職等監視委員会の調査を巡り大学の人事担当者が文科省と口裏合わせをしたと認めた。文科省との「癒着」は否定したが、官僚の再就職への不信が広がっている。(中略)吉田氏の採用を巡り、早大は15年9月、内部で審議を行った。この時、大学を監督する立場にある文科省の高等教育局のトップを受け入れることを疑問視する意見が出ていた。だが文科省人事課から「再就職の規制には抵触しない」「採用手続きが文科省退職後に開始されたのであれば問題ない」と説明され、受け入れを決めたという。(毎日新聞)

「内部で審議を行った」とあるが、恐らく採用に当たって組織された人事委員会に当たるものだろうと推察する。この人事委員会で候補者として決める時点で疑義が出て、問い合わせたら規定に抵触しないとの回答を文科省から得た。そこで該当教授会で業績等の履歴が審議されて決定され、上部機関に諮られて、最終的に理事長が決裁して正式採用ということになっているはずである。早稲田は二重三重のチェックをして吉田氏を任用していることになる。大学の教育に必要な人材として評価したということである。
天下り規定に抵触するかどうかが問われたというのは、吉田氏の研究者教育者としての適格性よりも規定違反を敢えてしていた品行、品性に関わる問題が発覚して、辞職願が教授会に提出され、それを教授会が承認したということになるのであろうか。余人を以て替え難い人材として迎えたのであれば、簡単に辞職を認めなくても良いように思う。むしろ天下り規定に問題在りという位の見識が欲しいと思うのだが。
早稲田は、昔から学生一流、教授三流とか揶揄されていたと仄聞するが、組織は何流なのだろうか。


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次の元号 [社会問題]

今上天皇の譲位が認められて、平成30年の年末に譲位があって、皇太子の天皇即位と共に新たな年号が定められると報道されている。
昭和天皇崩御は昭和64年正月上旬であった。今上天皇は即刻即位されて平成の元号が定められた。
明治から大正、大正から昭和への天皇の即位はいずれも崩御直後であった。ために大正元年は一月未満で終わっている。崩御後の天皇の空位を避けるための天皇の継承形態である。
譲位が成立して次の天皇が即位する場合には、年度途中でなく元年正月の天皇即位という継承形態をとって、時の流れにけじめをつけるようということである。
古代中国の春秋という編年体の歴史記述では、元年に君が即位するという形式をとり、元年を迎えて正式な君となるという体裁をとっている。
暦年途中での即位による元号の変更は、色々な面、暦や企業や学校などの暦年の表記を複層させ、複雑にさせてきた。そんなこともあって、政府の公式文書では元号表記を原則にしていても、西暦表記が優勢になってきている。勿論年次の連続性保持がより大きな理由であろうが。
15日付けの日経新聞の「現代ことば考」で言語学者の井上史雄氏は、「次の元号はどう定まるだろう」と提起し、平成に決まったことで、「明治・大正・昭和をM10 T12 S20」のようにローマ字で記す習慣があったから、重ならないHで助かった」と言う。重ならないことなどを前提にして、使えるアルファベットは12個に減る、と指摘されている。最後に「今でも中国皇帝伝統の年号を使い続け、根拠を中国の古典に求める。一方で西欧文化圏由来のローマ字表記を考慮に入れて、異質なものを共存させる。日本文化の重層性が表れている」と結んでいる。
日本文化の重層性なのか、古代以来の吹き溜まり文化の結晶なのかは分からないが、大切なことは多様な価値形態を持っていること、あるいは持とうとしていることを失わないように努めることではないかと思う。
ところで、井上氏の条件を考慮して、ない知恵を絞って僭越ながら次の元号を考えてみた。
譲位という今上天皇のご意志を踏まえ、「光昭」としてはどうかというのが卑見である。今上天皇の遺徳を継いでより大きく象徴天皇としての徳を光り輝かすという程度の意味をになわせてのことである。中国の古典に根拠を得ていることは言うまでもない。過去の日本の元号を総覧するに「光」の字を含む元号はないことも併せ考えてみた。
「平成」は「内平らかに外成る」という史記の言葉に基づいているが、これも読み方によっては、「内平らかにして外成(たいら)ぐ」とも読めるので、今上天皇が先の大戦で命を失った内外の多くの人々の慰霊に心を砕かれたこと、評価は分かれるとは言え、安倍首相が真珠湾の慰霊式の臨んだことはこの元号の締めくくりに相応することだったのかもしれない。
まだ一年ほどの時間的余裕があって、識者がそれ相応の元号を考えられるのであろうと思いつつ、死に急いでいるわけではないわないが、井上氏のコラムに触発されて考えを巡らしてみた。

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除夜の鐘論争 [社会問題]

東京・小金井市 にある、100年 以上の歴史を持つ『千手院』 。住宅街に囲まれており、近隣からの苦情で『除夜の鐘』の中止を決めた。

7代目住職の足利正尊 氏さんは「家族で鐘つきをするのを楽しみにしていた方もおり、私の代で止めてしまうのは悲しい思いではあるが、致し方ないところです」と話す。

静岡県牧之原市にある、450年以上の歴史を持つ大澤寺 も『除夜の鐘』をやめた。

15代目住職の今井一光 さんは「夜中に鐘が鳴るということに非常に腹を立てた近隣の方からのクレームがありまして、それでやめました」と説明。
仏教経済ジャーナリストの井上暉堂 さんは、『除夜の鐘』を自粛したお寺について「1000人に一人でも鐘の音をうるさいと感じる人がいれば”仏教の教え”として対応してしまう、ということが原因のひとつかもしれない」話す。(出典:http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/oto/sub08.html

今日は小正月で小豆がゆを食した。地域によってそのような習俗や慣習がないところもある。
年が明けて除夜の鐘に苦情が出ているという話題を取り上げるのも些か間延びしたことであるが、この問題も大局的には、保育施設への拒否反応で述べたことと同じことが言えるだろう。苦情を言う徒輩には喫煙する者もいるだろうし、大概は自動車で二酸化炭素をまき散らしている者もいるだろう。
その上、自己の信仰に基づいた仏教徒の宗教的行為に対する苦情は、憲法が保証する信仰の自由を圧殺、否定する問題を孕んでいると言えるのではないか。
除夜の鐘は、108の煩悩を洗い清める宗教的行為であるとされる。恐らくこの鐘で非仏教徒も含めて苦情を言う煩悩をも洗い清めるという視点で仏寺や仏教徒は信仰の自由を強調すべきであろう。
静謐を求める自由と信仰の自由を求める権利との問題として捉えると、恐らく法的には受忍限度の問題とされ、公共の福利安寧に著しく悖るか否かということになるだろう。年に一度の鐘の音を「騒音」ととらえるかどうかであろう。
少し大仰になるかもしれないが、武器弾薬製造のために、戦時中寺院の鐘を強制的に供出させた暗黒の歴史を寺院は忘れてはならないだろう。除夜の鐘への苦情容認ないしは気遣いはより大きな信仰の自由圧殺とどこかで通ずるかも知れないと考えておく方がいいだろう。
除夜の鐘が耳障りだという苦情は、キリスト教のチャペルの塔が目障りだという苦情だって生みかねないのではなかろうか。
伝統文化の消長の問題として捉えきれないと考えた次第である。
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今日の昼ブラ司会者の言葉遣い [言葉]

苟も司会を業とする以上は、言葉について鋭い感覚と感性に基づく正確な語彙の知識をもっているべきであろう。
昼ブラを何気なく聞いていると司会者が「せざるを得ない」というべきところを、はっきりと「せざるをおえない」と言うのを聞いて、こうした言葉遣いが蔓延しているようだということを再認識した。彼はどのような意味でこの言葉を用いているのか聞いてみたいほどである。文脈から察するに間違った用語法でもなかったと思うが、言葉の意味を無色化して言葉として発しているから、平然とこうした誤用をするのではないかと思う。
周囲の人は誰も注意もしないのであろうか。小池都知事の政治塾が話題になり、次の都議会選挙の小池派の立候補問題が論ぜられていて、年配のコメンテーターも何人かいた。その場で注意するのも司会者の面目に関わると思うから、爾後に直接言えないならば、メモでもしたたためて注意してやった方がいいのではないかと思った。
この司会者がそうしたことを言っているかどうかは定かではないが、何か言えば、したり顔に「プロ云々」という人が多く居て耳障りであるが、司会者と務める以上は言葉に対する自覚的反省は持った方がいいように思う。
つらつら慮るに、「せざるを得ない」とか「言わざるを得ない」という二重否定の表現に慣れていないことが原因なのかも知れない。「為ざるを得ず」は「不得不為」を訓じたものであり、「言わざるを得ない」は「不得不言」の訓讀の口語化したものである。
二重否定とか反語表現といった屈折した漢語的表現に馴染めないなら、これも二重否定には変わりないが「言わないわけにいかない」とか「しないわけにはいけない」と表現すればすむことのように思うが、結局は意味の理解が曖昧であるから、そうした表現も出来ないのかも知れないだろうか。
その昔、「行かへんことあらへんことあらへん」などと否定の否定の否定表現を用いて子供なりに言葉遊びをしたものであるが、そうした言葉遊びも廃れているのか、そうした言語環境に馴染むことが少なくなっているかのいずれかなのだろう。
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井沢元彦氏の朝鮮(韓国)の朱子学受容理解 [理念]

「なぜ自然科学の分野ではいまだに韓国人は誰一人としてノーベル賞を獲れないのか?

 韓国人にとっては耳の痛い問題だろう。あるいは私がこの問題を取り上げること自体、韓国に対する悪意のあらわれと受け取る韓国人もいるかもしれない。とんでもない誤解である。私は韓国に早く普通の国家になって欲しいと思っている。具体的に言えば、何百年も韓国を蝕んでいる朱子学の悪影響から早く脱して欲しいという意味である。(中略)
しかし、そうではない。実際は輩出、独占どころか2016年の時点で韓国人の受賞者は一人もいない。ということは大前提とした「すべては韓国発祥である=韓国人のオリジナリティー創作能力は人類最高」という仮説が間違っていたということだ。

 むしろ一人もいないのだから仮説とは真逆の「韓国発祥のものはほとんど無い=韓国人のオリジナリティー創作能力は人類最低」というのが真実であるか、少なくとも真実に近い、ということなのである。

 ここで、そんなことは絶対に認めないと叫んで、冷静な議論が耳に入らなくなるようでは、韓国人は永遠に朱子学の悪影響を脱することはできない。そう叫ぶこと自体、じつは朱子学の毒に冒されているのである。」井沢元彦氏による週刊ポストの連載「逆説の日本史」(週刊ポスト2017年1月13・20日号)

韓国で自然分野でのノーベル賞受賞者が未だに現れていないことの理由が、朱子学に毒されているという理解が正しいのかどうかの判断根拠は持ち合わせていない。
井沢氏は「大切なのは論理であって感情ではないのだ」と文中で注意を喚起しているが、この注意に従えば、井沢氏は、朱子学が論理体系をもった思想体系つまり理性を重視する学問であることを誤解、乃至は曲解しているのではないかと思う。ノーベル賞、殊に自然科学分野での受賞者の有無と民族的思惟形成の関係が井沢氏の指摘する通り正しいのだとするなら、正しくは朱子学を朝鮮人の固有の思想を介して理解した朝鮮朱子学だというべきであろう。
朱子の「論語集注」は、孔子を神格化し絶対化しているとはいえ、論理的整合性をもって解釈されている。その論理的整合性の故に西洋人は朱子学にさほど強い関心を示さない。むしろ道教とかの非条理な思想に関心を強く示すとも言われている。
しかし、朱子は、大疑録(本当の疑いについて)で「疑い有るは疑い無きを要し、疑い無きは疑い有るを要す」と疑うことの本質と原理を見事に表現している。
孔子も「多く聞きて疑わしきを闕(か)き、多く見て殆(あや)うきを闕く」と言っている。
「疑わしきを闕く」というのは、疑わしいことは疑わしいこととしてそのままにしておく、ということである。疑わしいことを狭い独断で決めつけたりせずに、判然とした明確なことだけに依拠して発言したり実践したりすれば、悔いることも咎めを受けることも少ないと言っている。

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保育施設への拒否反応 [社会問題]

保育施設の子どもらが出す音や声を巡り、「うるさい」との苦情を受けたことがある自治体が、全国主要146自治体のうち109自治体(約75%)に上ることが、読売新聞の調査でわかった。(中略)2012~16年度の5年間に、建設計画段階のものを含む保育所や認定こども園への苦情を受けたことがあるのは109自治体。うち、5年間すべての件数を把握している43自治体では、12年度の計37件から15年度は計88件、16年度は12月までに既に計89件と増加傾向だった。(読売新聞)
「うるさい」というのが苦情の理由のようである。子供の声がうるさいのではなく、保育所や幼稚園で子供を指導している保育士が使う拡声器の音量が喧しい場合が多いのだと思う。必要以上の音量を出して子供への保育をしている場合が多い。保育所や幼稚園の敷地は狭小であるから、余計その音量は隣近所を直撃する。
小学校や中学校でも全校行事を控えたときの教員の声は拡声器に乗って近隣をいらつかせる場合が多い。
夜勤明けなどで昼間に睡眠を確保しなければならない勤労者にとっては、仕事と健康に大きな影響を与えることを恐れて、苦情となって設置者の自治体に届くのであろう。
また施設の周辺で保育所や幼稚園の行事があるときには路上駐車が近隣の人々の生活に支障をきたすこともあるだろう。
苦情として持ち込まれるものは上記の二件が代表的なものであろうと推測する。これらは凡て体感したり実感できる施設や他者からもたらされる困惑事である。
一転して、苦情を持ち込む人が果たして他者に問題をもたらしていないかどうか。苦情の受け手は無垢であるかと言えるかと考えてみると、反転して苦情、苦言者は自動車に乗って排気ガスをまき散らしていないかと言えば、殆どの場合それを否定できる人はいないだろう。地球温暖化に少なからず手を貸しているのが我々の大多数であろう。これらは判然と目に見えないが少なからず罪を背負っているのである。目に見えることには敏感で、自らのしている直接的には目に見えないマイナス行為には不感症である場合が多いのではなかろうか。石もて擲つことのできる罪なき者はいないということの中で接点を見つけることが重要なように思う。自治体関係者の腕の見せ所なのかもしれない。
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小池都知事の電線地中化施策は都民第一か [社会問題]

小池都知事は、電線地中化の実現を目指して、地上での電線網設置を認めない条例を提案すると公約している。都議会でどのような議論が為されるのかは分からないが、地上での維持管理や安全性とか、都市景観の向上ということにその眼目があるのだろうが、直下型地震の恐れ絶無としない東京都でこの電線地中化には慎重な検討をした方がいいのではなかろうか。
阪神大震災で、電気が震災後一両日で復旧したのは、電線が地上にあったので修復が早かったとされる。他方ガス管は地下に埋設されているため、都市ガスの復旧には月単位を要したという。この事実に照らして電線地中化計画には多角的な検討が必要なのではないかと言う所以である。
地震では地下にはさほどの害は及ばないとされていたが、阪神大震災では神戸市内を走っていた電車の地下路線は甚大な被害を受けていて復旧にも手間取るという想定外の災害を生起している。
東京で大地震が起こった場合の被害の甚大さは阪神大震災どころではないだろう。エネルギーのうち、電気もガスも復旧に多大な時間を要することになると正に日本の心臓部が機能不全に陥るのではないかと想定される。特に電子機能万能時代での電気エネルギーの停止期間の長期化は経済活動にも致命的な第二次災害をもたらすであろう。あらゆる東京の活動に支障が出るだけでなく、停電の復旧に手間取ることになれば、人命にも多大な影響が出るのは必至であろう。
電線地中化には万全にして緻密な整備がなされるとしても、自然の力はそれを上回ることは既に経験済みのことである。日本の技術力を過信してはならない。それよりも失敗や災害が生じた場合にそれをいかに小さくするか、或いは復旧を迅速にできる方策を考えるのが都民第一の施策だと思う。災害は発生しないと勝手に思い込んだり、それを上回る技術と整備で対応するという考え方は失敗を増幅させるだけではなかろうか。失敗や被害が生ずることを前提にした施策こそ為政者は考えるべきであろう。
カリフォルニアの大地震で高速道路が崩壊したのを見て、日本技術者は日本ではあのようにはならないと技術を自負していたが、阪神大震災では技術力を誇っていた高速道路が崩壊しているのである。
東京都は今でも東京電力の筆頭株主であるはずである。筆頭株主として、小池都知事は東京電力の原発依存の電力事業の転換にもの申すべきではないかと思う。党員として自民党の原発政策を支持継承しているのかも知れないが、これも都民第一という考えには遙かに遠いことではなかろうか。
かつてエネルギー政策は国策で都知事選の公約には馴染まないとのたまっていた高名な評論家もいたが、上から目線の発言であることについては既に記したことである。
いずれにせよ、無告の民のことを常に念頭に置いておくことが都民第一の政治でなければならない。
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